「岩槻藩遷喬館(いわつきはんせんきょうかん)」は、今からおよそ200年前の江戸時代に、児玉南柯(こだまなんか)という先生が開いた学校です。明治時代に新しい小学校ができるまで、岩槻藩の武士の子どもがここで勉強しました。今は、江戸時代のようすを復原して、だれでも見られるようにしています。
遷喬館の歴史
- 寛政11年(西暦1799年)
児玉南柯が遷喬館をつくる。このとき南柯先生は54歳。
- 文化年間(西暦1805から11年ごろ)
岩槻藩の藩校となり、藩士(武士)の子どもだけが通うようになる。(ほかの子どもは郷学校(ごうがっこう)や寺子屋(てらこや)に通うようになった)
- 明治4年(西暦1871年)
廃藩置県(はいはんちけん)により岩槻藩がなくなり、遷喬館も廃止される。
- 明治5年(西暦1872年)
もとの先生が個人で授業をはじめたが、公立の岩槻郷学校(後の岩槻小学校)ができたため廃止となる。
- 昭和14年(西暦1939年)
岩槻藩遷喬館が埼玉県指定文化財(史跡)になる。
- 平成18年(西暦2006年)
解体復原(ふくげん)修理が終わり、だれでも見学できるようになる。
遷喬館 質問と回答
- どんな子どもが通ったの?
遷喬館には、6歳から7歳ごろから20歳ごろの子どもが、40人くらい通っていました。遷喬館ができてからしばらくは、南柯先生が運営(うんえい)をしていて、藩士(武士)や商人、農家の子どもが通っていました。そのあと岩槻藩が運営をすることになり、「藩校」「勤学所(きんがくしょ)」とも呼ばれるようになりました。藩校になってからは、藩士の子どもだけになりました。
- どんな勉強をしたの?
遷喬館では「儒学(じゅがく)」という学問を勉強しました。儒学は、中国に古くから伝わる学問で、「孔子(こうし)」という中国の学者の教えにもとづいて、中国や日本の歴史や、人がどのように生きれば良いかなどを教えていました。午前中は小さい子どもにやさしい内容を教え、午後は進級試験(しんきゅうしけん)を受けた子どもが、よりむづかしい内容を勉強していました。
- いまの建物はいつごろできたの?
遷喬館ができた寛政11年(西暦1799年)ごろに建てられたようです。中央の広い二つの部屋が教室で、両側には先生の部屋と、ものを置いておく納戸(なんど)があります。
遷喬館が廃止になってからは、人が住むための家に作りかえられていました。その後、埼玉県に残っている藩校の建物はほかに無いことから、文化財として保存することになりました。作り変えられた部分を元にもどす工事をおこない、江戸時代の藩校のようすがわかるようになっています。
- 遷喬館のほかにも学校があったの?
江戸時代の終わりごろの岩槻区には、学校が四種類ありました。
藩校(はんこう): 藩士(武士)の子ども(男子のみ)が通いました。
郷学校(ごうがっこう): 町人・商人の子ども(男女とも)が通いました。文字の読み書きやそろばんの使い方を教えました。
寺子屋(てらこや)(5ヶ所): 農家の子ども(男女とも)が通いました。文字の読み書きやそろばんの使い方を教えました。
漢学塾(かんがくじゅく)(4ヶ所): 郷学校や寺子屋を卒業した子どもが、儒学(じゅがく)など、むづかしい学問を勉強しました。
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