ページの先頭です。 メインメニューへ移動 フッターへ移動


ページの本文です。

更新日付:2013年12月24日 / ページ番号:C003678

別所沼ゆかりの芸術家たち 画家・彫刻家編

このページを印刷する

タイトル

須田剋太

(すだこくた 画家 明治39年から平成2年)

あらまし

 須田剋太は、明治39年に埼玉県吹上町に生まれ、昭和2年には、県立旧制熊谷中学を卒業した後、東京美術学校への入学を目指して旧浦和町へ移り住みました。
美校受験は成功しませんでしたが、当時その地に集まっていた若手の画家たちと、自分の画風を追及しながらのびのびと絵を描き続けました。そして昭和5年には別所沼に、日本画家で友人の四方田草炎のアトリエの隣に自分のアトリエを構えるようになります。当時すでに洋画の大家となっていた寺内萬次郎に才能を認められ、昭和14年には「読書する男」で文展特選を果たします。
その後は、関西へ移り住み、昭和17年文展と昭和22年日展でそれぞれ特選となりました。戦後は抽象画を主に手がけるようになり、国内だけでなく海外の展覧会にも出品し、国内外で高い評価を受けました。昭和46年からは、週刊朝日で司馬遼太郎が連載した「街道をゆく」の挿絵をおよそ20年も描き続けました。

中野四郎

(なかのしろう 彫刻家 明治34年から昭和43年)

あらまし

中野四郎「平和の像」
中野四郎「平和の像」(南浦和駅東口)

 漢学者を父として、明治34年に東京都で生まれ、大正12年東京美術学校彫刻科木彫部に入学しました。昭和3年に同校を卒業、卒業の年の秋から帝展、文展に10数回入選し、昭和16年以降、文展無鑑査となりました。昭和5年には旧浦和町に移り住み、終生この地に住むことになります。昭和26年には創型会を結成し、その代表者として文化振興と後進の育成に大きく貢献してきました。また同年から埼玉大学教育学部美術科で講師として彫塑を教授しました。彫刻家として多くの作品を残した中野四郎ですが、現在、南区内で見ることができる作品としては別所沼公園内にある「掛けた女」や南浦和駅東口ロータリー内の「平和の像」などがあります。なお「平和の像」はかって浦和駅西口にありましたが移設されたものです。

奥瀬英三

(おくせえいぞう 画家 明治24年から昭和50年)
 堅実で丁寧な画風で主に官展を中心に実績を残した奥瀬英三は明治24年に三重県で生まれ、明治45年に画家を志して上京し、太平洋画会研究所で学びました。大正14年には第6回帝展で特選受賞を果たし、さらに第7回、第8回帝展において3年連続して特選となります。第9回以後は無監査となり、さらに翌年からは審査員を務めるなど、画壇の道を順調に歩みました。
 昭和6年には、当時鹿島台と呼ばれていた、別所沼から近い高台にアトリエ付きの住宅を建て、終生この地に住み続けました。そのアトリエは現在でも残っており、骨とう品の店で購入した窓枠を取り付けるなど、細部にわたって芸術家らしいこだわりが見受けられます。
 実直な人柄で創作活動に生涯にわたって熱心に取り組む一方、県美術の振興にも多大な貢献をなしました。

林倭衛

(はやししずえ 画家 明治28年から昭和20年)
 明治28年長野県に生まれ、上京し、印刷会社で働きながら夜学で絵画を学びました。詩を愛し、アナキストの活動に加わる時期もありました。大正5年第3回二科展に初入選し、第4回展で樗牛賞、第5回展で二科賞を受賞。大正8年には、反政府運動家の大杉栄を描いた第6回展出品の「出獄の日のO氏」が撤回命令を受け話題となりました。その後フランスへ渡航し、滞欧中の作品が好評を博し、さらに画家としての地位を固めました。昭和12年には、現在の日展にあたる第1回新文展で審査員も務めています。一方で酒好きの画家としても知られ、そのことが原因で体調を崩すこともしばしばでした。昭和16年に別所沼のほとりに移り住み、晩年をこの地で過ごしました。

四方田草炎

(よもだそうえん 画家 明治35年から昭和56年)
 四方田草炎(本名 清次郎)は、明治35年に児玉郡北泉村(現在・本庄市)に生まれました。大正10年に上京し、医学関係の書店に勤めながら、川端画学校夜間部に通い、日本画を学びました。川端龍子に師事し、龍子が結成した青龍社の展覧会に出品し、入選を果すなど技量を認められます。雅号の「草炎」は、師の作品の画題にちなみ贈られたものです。
 この頃、別所沼のほとりに転居、当時親交があった須田剋太が隣にアトリエを構えていました。「デッサンが描けなければ、絵描きじゃない」という自身の言葉が物語るように、生涯デッサンにこだわり続けて、力強い作品を多数残しました。

跡見泰

(あとみゆたか 画家 明治17年から昭和28年)
 跡見泰は、明治17年に東京神田に生まれました。跡見女学校の創立者跡見花渓の甥にあたります。西洋画の大家である黒田精輝に師事し、東京美術学校西洋画科選科で学びました。明治40年の第1回文展で3等賞となり、第2回、第3回と続けて3等賞を受賞します。
 大正11年パリに遊学し、帰国後の大正14年に別所沼から近い鹿島台へ移り住みます。作品の中に、当時別所沼の沼畔にあった村岡牧場の風景を描いたものが何点か残されており、多くの芸術家に愛された別所沼周辺の野趣ある風景をしのぶことができます。

この記事についてのお問い合わせ

南区役所/区民生活部/コミュニティ課 
電話番号:048-844-7130 ファックス:048-844-7271

お問い合わせフォーム

ページの先頭に戻る

イベント情報

イベント情報一覧を見る


表示モード : パソコン版スマートフォンサイト

ページの先頭に戻る