文化元年銘 庚申塔(ぶんかがんねんめい こうしんとう)
不動明王像(ふどうみょうおうぞう)
浦和博物館の庭に、屋外展示されている石造物を紹介します。
文化元年(1804)銘の庚申塔と不動明王像です。これらは、浦和区常盤2丁目にある児童文学作家・翻訳家の石井桃子(1907-2008)さんの生家に大切に保管されていたもので、当館に平成24年に寄贈されました。
ここでは、おもに庚申塔について紹介します。
<庚申塔(左)と不動明王像(右)> <庚申塔右側面> <庚申塔左側面>

2基とも、江戸時代の終わりには、中山道浦和宿の一里塚のやや南、北西に分岐する小道の角(現 浦和区常盤2丁目)に建てられていた石塔です。写真は現在の当館での展示の様子ですが、当時も同様に配置されていたと伝えられています。浦和博物館への移設前は、いたずらを避けるため、個人宅敷地内に移動していたたそうです。
庚申塔は、正面に大きく「庚申塔」と刻んだ文字庚申塔です。
・高さ80cm、幅30.5cm、奥行20cmの角柱
・銘は以下のように刻まれています。
※実際はすべて縦書きです。写真でご確認ください。
<正 面>
庚申塔
<右側面>
よの
是より 川越 道
秋葉
<左側面>
文化元年甲子十一月日
上宿講中
(講中の名前や石工銘は見られませんが、文化元年に上宿(現・浦和区常盤)の講中によって 建てられたこと、道標の役割を担っていたことがわかります。)
一方、一緒に寄贈された不動明王像物は現在のところ謎に包まれています。庚申塔と並んで立っていた舟形光背の高さ39cmの不動明王像は、台石に「不動尊」と刻む以外、年号も願主等の名前も見ることができません。
「与野へと続く道」を調べる(「よのへとつづくみち」)をしらべる)
この道標の役割も果たしている庚申塔は、もともと中山道沿いに立てられていたということです。そうであれば、この庚申塔が立っていた場所に分岐点があり、与野、秋葉神社、川越へと続く道があったということです。今では、国道463号バイパスの新浦和橋の陰に隠れて路地のような道ですが、かつて「与野道」と呼ばれた道が現在も残っているのでしょうか。
<浦和宿絵図 文化8年(1811)>

江戸時代の地図で確認してみましょう。当館所蔵の「浦和宿絵図」では、中山道の浦和上宿の様子が詳しく描かれています。その絵地図には、江戸日本橋から六番目となる一里塚が記されていますが、その南側に、細く北西方面へ分かれ道が確認できます。この道が「よの 是より 川越 道」と思われます。庚申塔は道標として中山道に向かって立っていたと思われます。
<最近調査浦和町明細全図 大正3年(1914)>

次に、大正時代の地図で確認してみましょう。中山道が浦和常盤町で東北線と交わる南側、北西に向かう道が確認できます。この道をたどると、現在の北浦和公園の北角を抜けて、与野町の中心方面へたどり着きます。江戸時代の地図よりも道の太さも幅広くはっきりと描かれています。
その後、昭和になり、中山道の拡張工事や浦和市の市街化により、中山道の道標としての庚申塔は役目を終え、石井桃子さんの生家に移されました。現在の「よの 是より 川越 道」は、国道463号バイパス新浦和橋の下を通る道となっています。
関連情報
○石井桃子(いしいももこ)
○浦和宿の3区分 上中下
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