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更新日付:2021年3月30日 / ページ番号:C079679

(小学生向け)第44回特別展「中山道大宮宿」の展示解説

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(小学生向け)特別展「中山道大宮宿」の展示解説

展示の内容について小学生向けにわかりやすく解説しました。
お子さまとご一緒に、ぜひご活用ください。

はじめに

大宮は、古くは氷川神社の近くにできた門前町(大きなお寺や神社の周りに発達した町)でした。
その後、江戸幕府の初代将軍となった徳川家康が、江戸を中心に五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の5つの主な道)をつくったころに、中山道(なかせんどう)の宿場の一つになりました。
大宮周辺の中山道の道すじは、最初、氷川神社の参道の近くを通っていたとみられます。
やがて今の旧中山道の場所へ移って、そこに新しい大宮宿の町並みがつくられていきます。

ここでは、大宮宿がどんな宿場町だったのか、はじまりから宿場のしくみ、町並みの様子など、昔の資料をもとにわかったことについて紹介していきます。

大宮宿の起こり

今から約420年前、五街道の一つである中山道の整備が始まりました。大宮宿が宿場になったのは、このころのことです。
ただし、もとの中山道は、氷川参道の東側を通っていて、そのあたりに宿場があったと言われています。
その後、今から390年ほど前、中山道は氷川参道の西側を通るようにつくり変えられ、大宮宿も新しくできた街道沿いに移ることになりました。
ここでは、大宮宿がどのようにして出来上がったのか見ていきます。

付け替え(つけかえ)前の中山道の道すじ 寛永5年の中山道付け替え

じつは、中山道が移動したことについての当時の資料は残されていません。残っているのは、何年もたった後に書かれた記録です。
それでは、これらの資料をもとに中山道が移動する前の位置について見ていきたいと思います。

昔、大宮宿の近くの街道は、ぐねぐねと曲がっていました。
そこで、新しく真っ直ぐな街道を作ることになりました。これを難しい言葉で中山道付け替えと言います。
今から400年ほど前、大宮宿の4町(宮町・大門町・仲町・下町)が宿場を務めていました。
その後、新しくまっすぐな街道を作ることになり、大宮宿4町も移動することになりました。
そして、新しい大宮宿として宿場のしくみも整備されるようになりました。

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付け替え前と付け替え後の中山道の道筋                付け替え前の中山道の跡(氷川参道 旧二の鳥居付近)

大宮宿のすがた

ここまで見てきたように、大宮宿は宿場町として発展していきましたが、この宿場のしくみとして重要なのが「宿泊場所としてのはたらき」と「荷物などを運ぶためのしくみ(人馬継ぎ立て)」です。
ここからは、宿場の宿泊と荷物の輸送に注目して紹介していきます。

本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん) 旅籠屋(はたごや)・茶屋

本陣とは、幕府の仕事で旅をする役人や江戸と地元の領地を往復する大名など、身分の高い人たちが泊まる宿のことで、大宮宿では初め、大門町の内倉新右衛門(うちくらしんえもん)という家が本陣でした。
しかし、その後、宮町の山崎喜左衛門(やまざききざえもん)という家が本陣になったと言われています。

脇本陣は、本陣がいっぱいで泊まれない時の予備の宿で、本陣の次に高級な宿でした。
今から200年くらい前には、大宮宿の脇本陣は9軒あって、中山道のほかの宿場よりも数が多かったようです。
旅籠屋は、武士や庶民などが泊まる食事付きの宿です。今から200年ほど前には大宮宿の5つの町に26軒あったそうです。
茶屋は、宿場で旅人などに食事やお茶、お菓子などを出した休憩施設で、大宮宿とその周りで8軒ほどあったそうです。
旅籠屋や茶屋は、中山道を旅する人たちが一休みするための場所でした。

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本陣・脇本陣が多かった宮町

大宮宿の町並み

大宮宿には、泊まったり、休んだりする施設のほかに、問屋場という施設がありました。
これは、幕府の仕事で各地に出張する役人などの荷物などを、次の宿場まで運ぶために必要な人や馬を用意する役割をもった施設でした。

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問屋場や脇本陣があった仲町の中心部付近

中山道分間延絵図(なかせんどうぶんけんのべえず)

今から215年ほど前に作成された中山道の絵巻物「中山道分間延絵図」にも大宮宿が描かれています。
大門町 ・宮町 ・仲町 ・下町・吉敷町など聞いたことがある地名も書かれています。
そのほかにも本陣と脇本陣、高札場(法律や命令などを板に記して掲示し、人々に知らせるもの)や氷川神社なども見えます。
「中山道分間延絵図」は特別展「中山道大宮宿」の図録で見ることができるので、博物館や図書館で見てみましょう。

大宮宿と助郷(すけごう)

中山道を通る人の数はだんだんと増えていきました。
そのために、宿場では荷物を運ぶ人や馬が足りなくなり、宿場だけでは人や馬をさし出す事がむずかしくなっていきました。
今から380年ほど前、宿場で足りない人や馬を、宿場の近くの村から出す事が決められました。
人や馬をさし出さなければならない村やその役割の事を「助郷」と言いました。
このころの大宮宿と、その周りの助郷村とのかかわりを紹介していきます。

助郷をめぐるトラブル

人や馬を差し出す助郷という役割はとても大変で、助郷役にならないように行動する村もありました。
その一方で、助郷役をやらなくても大丈夫な町や村もありました。
それには特別な理由があったようで、周りの町や村からは「助郷役を引き受けてくれ」という働きかけもあったようです。
大宮宿周辺の助郷村は徐々に増えていき、江戸時代の半ば頃から50か村になりました。広い地域に助郷村がひろがっていったことが分かります。

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大宮宿のいま

今では「中山道大宮宿」があったころの様子がわかる建物はほとんどなくなってしまいました。
大宮宿があった中山道沿いを中心にして、商業ビルがたくさん立ち並んでいます。
今の大宮の中山道がどうなっているかを見てみましょう。
興味をもった場所があれば、ぜひ実際に見に行きましょう。

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開発が進む大宮駅の駅前通り付近

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