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更新日付:2023年5月3日 / ページ番号:C095248

第34回企画展「自然塗料「赤山渋」~かつての郷土特産物~」展示Web解説 その3

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第34回企画展「自然塗料「赤山渋」~かつての郷土特産物~」 展示Web解説 その3

令和4年3月5日から5月8日まで実施した、第34回企画展「自然塗料「赤山渋」~かつての郷土特産物~」の展示解説を、3回に分けてご紹介します。

5.「赤山渋」~かつての郷土特産物~

赤山渋の発祥

「赤山渋」は、その名の通り、「赤山」を中心に生産された柿渋のことです。
この「赤山」は現在の川口市にある地名で、元々は「赤芝山」と呼ばれていました。
江戸時代初期の関東郡代である伊奈忠治(いなただはる)が開拓し、略して「赤山」と呼ぶようになりました。

赤山と言えば、現在の赤山歴史自然公園(通称:イイナパーク川口)がある場所にあった、「赤山陣屋」が有名です。
赤山陣屋は伊奈忠治によって建てられ、関東の幕領を治める拠点として機能していました。

その赤山周辺で、江戸時代中期以降に作られ始めたとされる赤山渋は、その後現在の緑区や見沼区の台地上でも盛んに作られるようになり、生産範囲が拡大しました。
下の図は大宮台地(図の赤茶色の部分)における、渋屋(柿を周囲の農家から買い集め、柿渋を作っていた農家)の屋号が残っていた場所を表しています。

渋屋分布図
大宮台地における渋屋分布図(稲見(1985)より引用し一部改変)

江戸時代初期は、主要な作物である米を中心とした穀物の栽培が盛んでしたが、江戸時代中期以降は商品作物の栽培も奨励されるようになりました。
菜種油や唐辛子、茶、綿花、大根、山芋、そして柿など、その種類は多岐にわたります。
元禄期から享保期(1688~1736)にかけて大宮台地が開発され、耕地が飛躍的に拡大したことが、商品作物が増加する一つの要因となりました。
川口市の神根小学校百年誌には、伊奈氏が渋柿を植えさせたという言い伝えが紹介されています。
赤山周辺で始まった柿渋生産は、赤山領・南部領の小規模な特産物として珍重されるようになり、やがて見沼領へと生産範囲が拡がっていったのです。

「赤山」というブランド

現在のさいたま市緑区や見沼区でも盛んに作られるようになった「赤山渋」。
前回述べたように、見沼代用水と切っても切れない関係なのであれば、後に「見沼渋」と呼ばれてもおかしくなかったのではないでしょうか。

推測にはなりますが、これは「赤山」という名の、ブランド力が強かったためかもしれません。

「赤山街道」は伊奈忠治が河川改修や新田開発のための連絡・物資輸送、年貢を運ぶための道として、赤山陣屋を中心として整備した街道です。
赤山陣屋からそれぞれ、大宮にある永田陣屋までの大宮道、越谷にある杉浦陣屋までの越谷道、千住にある小菅御殿までの千住道、この3つの道を整備しました。
これらはまとめて「赤山街道」または「赤山道」と呼ばれ、人びとの生活に無くてはならない道となりました。

赤山街道
赤山街道(大宮道・越谷道・千住道)

赤山の名のつく名産品は、赤山渋だけではありませんでした。

一つは、「赤山笊(あかやまざる)」
こちらは冬の農閑期に赤山地域周辺の農家が周辺の竹山からとった材料を使い、副業で生産していたものです。
頑丈にできていることに定評があり、食堂や餅菓子屋などのコメを扱う業者に需要があったようです。

もう一つは、「赤山切花(あかやまきりばな)」
こちらの切花は「江戸物」として江戸時代初期から江戸に売り出されていました。
ヤナギやサカキ、イブキ、マサキ、キャラ、チョウセンマキなど、多種多様な植物が使われていました。
天保7年(1836)には、岩槻城主であった大岡忠邦が、赤山村から産したマツの盆栽を将軍に献上しています。
盆栽とともに花百合ものも献上されるようになり、江戸での知名度が上がっていきました。

以上のことから「赤山」という地名は、江戸近郊での知名度の高さをうかがい知ることができます。

さいたま市域に残る赤山渋の記録

赤山渋にまつわる古文書はさいたま市域に多く残されています。

赤山渋は関西方面から入ってくる「下り渋」に対して「地渋」と称されていました。
赤山渋は「下り渋」と比べると、保存しておいても比較的凝固しにくいという点で商品的価値が高かったため、流通に関しては江戸問屋と山方渋屋(製渋業者)との間でたびたび抗争を起こしていたことが、多くの古文書からわかっています。

また、山方渋屋と渋柿農家との間でもトラブルが起きていた記録が残っています。
ここでは現在のさいたま市のある場所で、渋屋である源右衛門が、渋柿農家の庄次郎に対して起こした訴訟についてご紹介します。

江戸時代も後半になると、柿渋の需要が高まったことから、山方渋屋は渋柿の買い付けのため「手金」(手付金)を渋柿農家にあらかじめ渡しておくようになりました。
収穫時期になると手金に見合った量の渋柿を受け取る決まりになっていたのですが、庄次郎が納品を渋ります。
源右衛門は「納品しないなら、渡した手金は返してほしい」と主張し、一方、庄次郎は取り合わず、訴訟が起きました。

結論から言いますと、「庄次郎は源右衛門に三両を返すこと」との判決がくだりました。
手金は一両と少しだったので、元の金額の倍以上でした。
では、なぜ庄次郎は渋柿を納品することを渋ったのでしょうか。

理由は「この年の渋柿が豊作だったから」です。

農産物が豊作になりますと、一定の需要に対して供給が過剰になるので、値段は下落します。
庄次郎の側から見てみると、通常の価格で売りたいのに、市場の相場が安くなってしまったので、安く買い叩かれてしまうことになります。
そのため庄次郎は「そんなに安く売れない」と、納品を渋ったのです。

このような事態が起こる仕組みを、下図で簡単にまとめています(金額・個数は実際の内容とは異なります)。
(この表では収穫した分がすべて売れた計算になっていますが、実際はすべて売れませんので、売上げはもっと減ります)

豊作貧乏が起こる仕組み

それで納品を渋ったのですが、結果的には大損しています。
そんな話も、市内の古文書に残されていました。

6.赤山渋のそれから

明治~昭和10年代の赤山渋

赤山渋は明治時代に入っても生産され、関東地方の人びとの生活に関わり深いものとして使われました。

下の図は、さいたま市内のある柿渋生産農家が、昭和10年(1935)から昭和16年(1941)までに柿渋関係で出張に行った場所を示したものです。
出張先=出荷先とは限りませんが、関東一円に広がっていることがわかります。

柿渋関係出張先
柿渋関係出張先(昭和10年~昭和16年)(稲見(1984)より引用)

同じ農家の出荷先を業種別に表したのが下の表です。
酒造業、薬店、漆器店が多いのが見てとれます。

業種別 出荷先内訳

酒造

薬店

漆器店

タンス屋

金物屋

百貨店

不明

6

4

3

1

1

1

14

太平洋戦争に突入すると、柿渋を製造するための人手が少なくなり、地元生産者が減少し、代わって仲買いを行っていた渋屋が、柿渋製造から出荷までを一貫して行うようになりました。

戦後の赤山渋

柿渋の大口出荷先の一つだった酒造業では、酒の原料(モロミ)を搾る布袋に強靭剤として、そして、ろ過作用をもたらすものとして柿渋を使用していました。
しかし昭和40年代に入ると、化学繊維が普及して強靭剤が不要になっていきました。
また、漆の下塗りで使用する漆器店、柿渋そのものを薬として使用する薬店でも、化学染料の普及や需要の変化で出荷量が減少します。

そうして昭和52年(1977)の浦和市上野田での生産を最後に、赤山渋はおよそ200年続いた歴史に幕を閉じました。

現在の赤山渋

本展示でもご協力いただいた、川口市の「新井宿駅と地域まちづくり協議会」が赤山渋の復興に取り組んでいます。
赤山渋という名産品がかつて存在したことを後世に伝えるため、イベントを開催したり、加工品の生産に取り組んでいます。
ページの下の方にリンクを貼ってありますので、ご興味のある方はアクセスしてみてください。

おわりに

生の柿渋は独特な匂いがあるのですが、まるで銀杏のようだ、と形容される方もいます。
最初は匂いもきつく、色はほとんど透明に近い色をしていますが、日に当てることで匂いは徐々に抜けていき、当てれば当てるほど色も濃くなっていきます。
身の回りのものを柿渋で染めると、下の写真のような、なかなか味わいのある作品ができあがります。

最近では無臭柿渋というものも店頭や通信販売で売られるようになりましたので、エコバッグやTシャツ、うちわなど、この機会に柿渋染めにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

柿渋バッグ柿渋Tシャツ

ここまでお読みいただき、有難うございました。

参考文献

稲見聖子. 赤山渋の生産と流通. 埼玉県立民俗文化センター『研究紀要』. 1984, 創刊号, 81-114.
稲見聖子. 赤山渋の生産 –浦和市上野田の事例-. 埼玉県立民俗文化センター『研究紀要』. 1985, 第2号, 97-126.
秋葉一男. 見沼周辺における商品生産「赤山渋の訴訟文書」-江戸問屋との構想を繞って-. 埼玉県史研究. 1978, 2, 18-36
大蔵永常. 広益国産考 日本農書全集14. 農山漁村文化協会, 1978.
犬井正. カキノキ考. 環境共生研究. 2022, 15, 13-27.
李善愛. 8.済州島の柿渋染め. 日本繊維製品消費科学会『新版 繊維製品消費科学ハンドブック』. 1998, Vol.39, 1, 34-39


その1 「1.柿と日本人」「2.柿渋のあゆみ」
その2 「3.柿渋をつくる」「4.柿渋をつかう」

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