ページの先頭です。 メインメニューへ移動 フッターへ移動


ページの本文です。

更新日付:2021年4月19日 / ページ番号:C079857

与野郷土資料館展示web解説(その25)

このページを印刷する

一間、二間は長さにあらず-二間社の氷川神社本殿の意味するもの

中央区本町東6丁目に上町氷川神社があります。江戸時代には、与野町の北のはずれに位置し、与野町・小村田村両所の鎮守とされていました。現在でもそうであるように、社前で大宮・奥州道と川越道が分岐しており、社地が扇子の形に似ているために扇の宮と称されていました。村民から精神的な拠り所としての信仰を集め、境内には灯籠や狛犬など多くの石造物が奉納されています。境内はうっそうとした林だったようで、多くの絵図などにその様子が描かれています。

上町氷川神社
上町・氷川神社
社頭で道が分岐し、右が大宮道(奥州道)、左が川越道

フランス式彩色地図
明治13年のフランス式彩色地図に描かれた上町・氷川神社

その創立時期は不明ですが、与野町の成立と密接な関係があり、豊穣と安寧を願う村民の祈願の場として大宮氷川神社を分祀したものと考えられます。現存する社殿は、棟札から宝永6年(1709)の再建ということが判明し、二間社の流造りという構造をしています。本殿正面の柱が3本で構成され、柱間が二つあるために、二間社と呼ばれます。

本殿
上町・氷川神社本殿
身舎(もや、社殿本体)正面の柱が3本あるので、二間社と呼ばれる(屋根の形式は流造り)
(上町・氷川神社本殿平面図はこちら

通常、一間、二間は長さを意味しますが(一間は約180cm)、建築の用語では長さではなく、柱間の数を意味します。
つまり、柱が3本あれば、柱と柱の空間が二つになり、二間社と呼ばれます。

この二間社という構造は、奇数を多用する宗教建築ではあまり例がありません。
皆さん、三重塔や五重塔は見たことがあっても、偶数の四重塔や六重塔は見たことがないはずです(奈良薬師寺の塔は六重に見えますが、あれも三重塔です)。京都の有名な三十三間堂や奈良の談山神社の十三重塔も奇数になっています。

しかし、さいたま市を中心とする県内各地の氷川神社本殿では偶数の二間社が多く見られます。
いくつか例を挙げれば、市内では上町氷川神社以外にも、中山神社旧本殿(見沼区、県指定)、上大久保氷川神社・西堀氷川神社(以上、桜区)、宮前氷川神社(西区)、櫛引氷川神社(大宮区)、内谷氷川社(南区、一間社の二棟並列、県指定)があり、市外に目を転じると、菅谷氷川神社・戸崎氷川神社(以上、上尾市)、本町氷川神社(伊奈町)、新曽氷川神社旧本殿(戸田市、亡失)、糠田氷川神社(鴻巣市)など枚挙に暇がありません(二間社の氷川神社リストはこちら)。すでに失われて知られていないものも含めれば、さらに数は増えるはずです。

なぜ、このように氷川神社の社殿には二間社が多いのでしょうか。
確かに、他の神社でも二間社はあります。ただそれはまれで、あまり例がありません。

長宮・大光寺
大光寺門前の香取神社(岩槻区長宮)・・・これも二間社

古尾屋八幡神社
古尾谷八幡神社(川越市)・・・これも二間社

ここで注目されるのが、二間社の氷川神社の創祀は明確ではないものの、多くの場合が中世に大宮氷川神社を勧請(かんじょう、神を遷し祀ること)したという伝承があることです。
その伝承をそのまま信用することははばかられるにしても、多くの二間社の氷川神社に同様の伝承があることは事実です。

そこで、中世の大宮氷川神社の社殿は二間社で、その時代に勧請された氷川神社の社殿は大宮氷川神社の姿をそのままに、いずれも二間社という構造で建てられていったと考えてはどうでしょうか。

大宮氷川神社の祭神の変化を見ていくと、古代には一座(神)と考えられます。
これは平安時代の『延喜式』神名帳という資料から推測できます(なぜ推測できるかについては、こちら)。
中世になると主祭神は二座(神)になったようで、近世には三座(神)と変化していたようです。

そこで、二間社の氷川神社は多くが中世に勧請されたため、その当時の大宮氷川神社の社殿形式である二間社をそのまま伝えていると考えてみたいと思います。
事実、上大久保氷川神社の現社殿は大宮氷川神社社殿を譲り受けたものといわれており、その建築年代は様式などから中世末位に造立されたものと考えられそうです。このことからも、中世の大宮氷川神社本殿は恐らく二間社だったと考えられます。

上大久保氷川神社
上大久保氷川神社本殿・・・大宮氷川神社本殿を移築したとの伝承がある

しかし、ここで疑問が湧きます。
上町氷川神社本殿も二間社ですが、冒頭でご紹介したように、その社殿の造立年代は中世ではなく、江戸時代中期になります。
近世に造立した社殿が、なぜ中世の大宮氷川神社社殿形式を踏襲しているのか。近世には大宮氷川神社はすでに三間社の建築だったはずです。

大宮氷川神社(天津神社)
大宮氷川神社・天津神社本殿・・・これは三間
4代将軍徳川家綱が造立したもので、近世には大宮氷川神社本殿の一棟として使用されていた
 

これについての解答は、上町氷川神社の創祀自体は中世にまで遡り、江戸時代の宝永6年に再建されるまであった一代前(若しくは二代前)の社殿も二間社で、創祀以来二間社の姿を保って伝えていると考えられるのではないでしょうか。
二間社の氷川神社の多くが中世の創立と伝えていることは、同じ二間社であるこの上町氷川神社の創祀年代を考えるうえで参考になることです。

なお蛇足ですが、神社建築では一間社や三間社が一般的ですが、日本全国を見てみると、結構多くの間数を持つ建築に出会います。

出雲大社・十九社
出雲大社(島根県)内の東十九社(十九間)
本殿の両脇に東十九社、西十九社があり、ここに八百万の神が集まるといわれている

貫前神社(二十二間)
貫前神社(群馬県富岡市)内の二十二間社・・・あっ、偶数です!


その24 高沼用水路-北袋の取水口から鴨川合流まで


その26 与野駅ができた!!

地図情報をスキップする。

地図情報

地図をご覧になる場合は、下記リンクをクリックしてください。(Googleマップが新しいウィンドウで開きます。)

関連ダウンロードファイル

この記事についてのお問い合わせ

教育委員会事務局/生涯学習部/博物館 
電話番号:048-644-2322 ファックス:048-644-2313

お問い合わせフォーム

ページの先頭に戻る

イベント情報

イベント情報一覧を見る


表示モード : パソコン版スマートフォンサイト

ページの先頭に戻る