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更新日付:2022年4月23日 / ページ番号:C075566

与野郷土資料館の展示を簡単にご紹介します

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地域サロン・・・多くの方の集いの場所

館入口の左右にあります。自由に飲食ができるスペースです。

地域サロン1 地域サロン2
(地域サロン西側)                (地域サロン東側)

※どなたでも飲食が可能ですが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、机やいすを間引いてあります。短時間のご利用をお願いいたします。
※自動販売機等はございません。

第一展示室・・・多世代交流と体験の場

けん玉や紙芝居などの「昔のあそび」が体験できます。

第一展示室 第一展示室-2
第一展示室の様子               中央区役所脇に置かれていたSL39685号のNゲージ

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その8)「記憶の中の風景1「区役所脇にあったSL39685号」」
 与野郷土資料館展示web解説(その9)「記憶の中の風景2「与野に進出した工場」」
 与野郷土資料館展示web解説(その10)「記憶の中の風景3「六日町山の家」」

※現在、感染症拡大防止策として、けん玉や紙芝居などの「昔のあそび」体験コーナーの利用制限をさせていただいております。

第二展示室・・・与野の通史を学ぶ場

与野の旧石器時代から近現代までの歴史を学べます。

【与野の大地】与野の地形
与野地域の地形は、大宮台地の南西部にあたる台地と河川によって開析された低地とに大別されます。
台地には北からのびる浦和・大宮支台と与野支台があり、住宅地や本町通りなどの道路が乗っています。
一方、低地には、南北にのびる鴻沼川によって造られた「鴻沼低地」と荒川による「荒川低地」があり、主に水田として利用されていました。
(昭和21年米軍撮影の航空写真はこちら(協力:国土地理院))

 与野の坂 与野の坂(与野南小前)
本町東にて西を見る、奥が本町通り                             大戸から東を見る、奥が大戸中通り

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その22)「与野の大カヤ」

【原始】1.台地を渡り歩く
今から2万年前頃、人々は台地で生活を始めます。
その頃は石器だけの生活で、入り組んだ台地と低地を移動しながら、時には露営し、動物を追い求める生活でした。
縄文時代には温暖な気候へと変化し、狩猟や漁労、採取を基本としながら、定住という新しい生活スタイルを生み出していきます。
「土器」が登場するのもこの時期です。

尖頭器 尖頭器
尖頭器、旧石器時代後期     尖頭器、縄文時代草創期

イノシシ頭骨
イノシシ頭骨、縄文時代前期

【原始】2.台地と低地を行き交う
約1万年にわたって、縄文人は与野で生活しました。時間の経過とともに人口は増え、縄文時代の中頃にピークを迎えたと考えられます。
その間、人々は台地上を住居主体の集落と定めましたが、低地を利用するということも忘れませんでした。
縄文海進によって台地上には多くの貝塚が形成され、低地では河川や湧水を利用するための人為的な構築物である「水場遺構(みずばいこう)」が発見されています。
水場遺構の南鴻沼遺跡からは、日本最古の「掻き傷のあるウルシの木」や多くの貴重な資料が発見されています。

顔面把手   ウルシ櫛
南鴻沼遺跡出土人面把手             南鴻沼遺跡出土ウルシ櫛

丸木舟
南鴻沼遺跡出土丸木舟、上段から下面、右側面、上面、左側面。最下段は右が後面、左が前面

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その16)「与野を代表する遺跡・南鴻沼遺跡(その1)「掻き傷のあるウルシの木」」
 与野郷土資料館展示web解説(その17)「与野を代表する遺跡・南鴻沼遺跡(その2)「丸木舟」」


【原始】3.ムラとムラがつながる
市内の西側、かつての荒川(現在の鴨川)に沿うように多くの遺跡があります。
川の流路に沿って形成された自然堤防上には多くの集落が営まれ、それに伴ってムラとムラの交通や交易が次第に盛んになっていきます。
川の氾濫は肥沃な土を運び、灌漑技術の進歩と相まって生産力が高まることにより、貧富の差が生じて古墳に葬られるような豪族が出現することになります。

人物埴輪
人物埴輪、左が男性、右が女性、側ヶ谷戸古墳11号墳出土

稲荷塚古墳 茶臼塚古墳
稲荷塚古墳(大宮区)             茶臼塚古墳(大宮区)

【古代・中世】1.ミヤコとつながる
奈良時代には、天皇を中心とする政府によって中央集権国家が成立します。「国」や「郡」が組織され、それぞれをつなぐ道も整備されます。
全国はミヤコのある畿内を中心に、東山道や東海道など6つの「道」に分割され、各国には国司が赴任して地域の行政を担当するようになります。
与野の所属する武蔵国は、当初は東山道に所属していましたが、宝亀2年(771)年に東海道に移管されています。
  
螺髪1 「寺」墨書土器
宿宮前遺跡出土螺髪               曲庭遺跡出土墨書土器「寺」

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その13)「教科書でおなじみの和同開珎、与野でも発見!!」
 与野郷土資料館展示web解説(その14)「古代の与野に仏教文化が伝わっていた証拠が沢山!!(その1)」
 与野郷土資料館展示web解説(その15)「古代の与野に仏教文化が伝わっていた証拠が沢山!!(その2)」

【古代・中世】2.鎌倉へ至る
中世には、古代の官道とは別に、「いざ鎌倉」のために鎌倉と各地を結ぶ道が整備されました。
埼玉県内には上道(かみつみち、上信越道)、中道(なかつみち、奥州道)のほかに羽根倉や秩父に向かう道などが通り、
軍事目的で使用されただけではなく、都の文化の流入や商品流通にも寄与しました。
河川の渡河点は戦略的にも重要で、戦乱の舞台にもなりました。

高麗経澄軍忠状  羽根倉の渡し
正平7年高麗経澄軍忠状(翻刻文はこちら)  かつての羽根倉の渡しの様子

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その4)「融通念仏縁起絵巻にみる女性の坐り方」
 与野郷土資料館展示web解説(その12)「正平7年高麗経澄軍忠状と羽根倉合戦」

【古代・中世】3.いくさが駆け抜ける
15世紀の半ばの関東公方(かんとうくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)と山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏との抗争から16世松の徳川家康江戸入部まで、関東の長い戦国時代が続きます。
城主や武将だけではなく、名もなき人々までも日々の生活の中で合戦に駆り出され、暮らしの重要な部分を占めた「道」は合戦の行軍にも使われました。

北条氏房印判状
亥(天正15年)5月24日付け北条氏房印判状(翻刻文は
こちら

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その5)「与野に関わる二種類の大般若経」
 与野郷土資料館展示web解説(その30)「与野を代表する板碑」

 【近世】1.街道と街道がつながる
中山道は与野地域を通過していませんが、与野には引又(志木市)方面からの道や赤山道が通り、江戸や各地を結ぶ往還として重要な役割を果たしました。
そのため、町場では人の往来だけではなく、道路や舟運を介して物資や文化も流入し、農村部の生産力は幕府の経済基盤の一端を担いました。
与野が一番繁栄したのがこの時代です。

赤山道石橋供養塔  鈴谷村絵図
赤山道石橋供養塔            鈴谷村絵図 

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その2)「石橋供養塔」
 与野郷土資料館展示web解説(その11)「氷川神領だった上落合村」
 与野郷土資料館展示web解説(その23)「見沼代用水路-取水口から瓦葺での東西分流まで」
 与野郷土資料館展示web解説(その24)「高沼用水路-取水口から鴨川での合流まで」 
 与野郷土資料館展示web解説(その25)「一間、二間は長さにあらず-二間社の氷川神社本殿の意味するもの」
 与野郷土資料館展示web解説(その28)「与野道を歩く(壱)」
 与野郷土資料館展示web解説(その29)「与野道を歩く(弐)」

【近世】2.文化サロン、与野
長い群雄割拠の戦乱が終わると、江戸を中心に多くの学問や文化が発達しました。
江戸近郊の与野の知識人たちは江戸から先進的な学問や多くの文化を吸収して、与野の地でそれを開花させました。
その結果、与野には質の高い文化が存在することとなりました。
稲垣田龍、西澤曠野、鈴木荘丹、正野友三郎がその人であり、彼らが現代の与野の礎を築いたといっても過言ではありません。

与野八景  正野友三郎一門奉納の算額
鈴木荘丹:与野八景句集             正野友三郎一門奉納の算額

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その3)「与野石工」
 与野郷土資料館展示web解説(その6)「上町・氷川神社の拝殿に有名書家の額が・・・」
 与野郷土資料館展示web解説(その21)「難問!! 江戸時代の算額-あなたは解けますか」
 与野郷土資料館展示web解説(その34)「宇宙飛行士若田光一さんを遡ること200年、空を見上げた与野の天文研究家-稲垣田龍」

  
【近世】3.与野に根づいた信仰
江戸時代の人々は、寺社に対する信仰だけではなく、生活の一環や村落共同体としての行事としていろいろな信仰を持っていました。
念仏講や庚申信仰、、伊勢講などがそれですが、生活スタイルの変化などによって、現在ではそれらの多くが消滅してしまっています。
しかし、その様子は、寺社に奉納された資料や路傍に残された石造物によって、一端を窺い知ることができます。

大山全景  大山講神酒枠
大山全景:伊勢原市観光協会写真提供      大山詣でに使用された武州与野町講中神酒枠

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その1)「「足立八十八か所」観音霊場」
 与野郷土資料館展示web解説(その7)「与野の人々、大山へ行く」
 与野郷土資料館展示web解説(その27)「毎年続けて58回もの富士登山?」
 与野郷土資料館展示web解説(その31)「近世といえばこれ! 与野の庚申塔」

【近現代】1.鉄道・国道が通る
明治以降、与野も近代化の波を受けることになります。
新しく「与野町」が誕生し、役場や学校、病院なども整備され、鉄道駅の開設や国道の開通は東京都の距離を縮め、新たな産業を与野に導くことになりました。
積出港である横浜に比較的近い与野では、明治時代に製糸業が盛んになりましたが、昭和には多くの自動車産業が与野の経済を支えていました。

太政官高札 与野駅絵葉書 
太政官高札(高札翻刻文はこちら)        大正元年に開設された与野駅[絵はがき]   

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その26)「与野駅ができた!!」
 与野郷土資料館展示web解説(その32)「新しい「与野町」・「与野市」の誕生」
 与野郷土資料館展示web解説(その33)「明治時代、与野で栄えた製糸業」            

【近現代】2.本町通りのにぎわい
土蔵造り(屋根は瓦、外側には分厚い土蔵塗りに漆喰仕上げ)や塗屋造り(屋根は瓦、2階正面のみ土蔵塗りに漆喰仕上げ)の商家が通りを挟んで多く並んでいました。
大火被害を何度も受けての防火意識の向上と、活況を呈していた市場取引による豊かな経済力と関係があるものと考えられます。
商家の裏手には畑が広がり、米、大麦、小麦、蕎麦、大豆、栗などが栽培されていました。
定期的に市が開催され、鴨川流域の農村地帯からの物資や羽根倉河岸を使った東京の商人たちで賑わったといわれています。

 鏝絵の絵馬 街道ジオラマ
鏝絵の絵馬(明治43年に与野町の左官・青木藤吉が製作  昭和30年代の本町通りを再現したジオラマ

【近現代】3.与野とかかわりの深い人々
明治時代の後半、後に与野を彩る二人の人物が生まれました。一人はフェライトを発明して与野だけではなく世界に貢献した武井武氏で、
もう一人は市外の生まれながらも縁あって与野に住み、行政の公職に就き、与野の発展のために尽くした井原和一氏です。
二人とも出自や境遇は違うものの同時に与野にあって、欠かすことのできない功績を遺した人物です。

武井武氏         各種フェライト
与野市名誉市民表彰時の武井武氏   各種フェライト

井原和一氏写真  井原和一日記
壮年期の井原和一氏      井原和一日記

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その18)「武井武氏とフェライト」

【近現代】4.都市と都市がつながる
昭和から平成にかけて、与野は大きく変貌を遂げました。鉄道や道路の開通は遠い地域への移動をスムーズにできるようにしました。
埼京線は、今では臨海部や相模地方までの直通運転を行い、新幹線は東北や金沢方面へのアクセスを便利にしました。
また、首都高速埼玉大宮線での出入り口やジャンクション開設は、既存の道路との接続により、広い範囲で都市と都市を結ぶことを可能にしています。
埼京線開業記念入場券  埼京線ヘッドマーク
埼京線開業記念入場券(昭和60年)        埼京線開業・川越線電化記念ヘッドマーク

★関連する展示web解説
 与野郷土資料館展示web解説(その19)「埼京線ができたころ」

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