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更新日付:2024年2月21日 / ページ番号:C074878

与野郷土資料館展示web解説(その15)

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古代の与野に仏教文化が伝わっていた証拠が沢山!!(その2)

前回ご紹介した旧荒川沿いの宿宮前遺跡や大久保領家遺跡に近接して北側に根切遺跡という遺跡があります(西区島根、さいたま市民医療センター周辺)。
この根切遺跡からは古代の重要な遺物や遺構が多く発見されてますが、ここではウルシの付着した土器に注目してみます。

根切遺跡・ウルシ 根切・ウルシ実測図
(根切遺跡第8次発掘調査出土土器・・・黒い部分がウルシ)

この土器以外にも、根切遺跡からは多くのウルシが付着した土器や平瓶などが出土しています。
このことから、この遺跡にはウルシを貯蔵・運搬する施設があった可能性が指摘されていますが、東日本ではこの類の遺物は官衙(かんが)関連の遺跡から出土することが多いことから、この根切遺跡も例えば初期の足立郡の郡衙(ぐんが)などの官衙遺跡だったとも考えられます(この遺跡からは大溝も発見されています。大溝写真は下の関連ファイルにて)。
郡衙には付属する寺院が存在したことも考えられるため、推測の域を出ませんが、この官衙遺跡である根切遺跡に付属する寺院が大久保領家にあった寺院だったのかもしれません。

「古代の与野に仏教文化が伝わっていた証拠が沢山!!(その1)」でも触れましたが(与野郷土資料館展示web解説(その14)、下の関連ページから見られます)、大久保領家遺跡から出土した軒丸瓦と同じ型の瓦が熊谷市の西別府廃寺にももたらされており、その西別府廃寺に隣接する場所に幡羅郡家が存在することを考えれば、根切遺跡と大久保領家廃寺との関係は、幡羅郡家(郡衙)と西別府廃寺(付属する寺院)と同じだったのかもしれません。

「寺」が存在していたことを直接示す資料も発見されています。
時代は下がりますが、いずれも中央区内に位置する曲庭遺跡(中央区大戸)と与野西遺跡(中央区桜丘)から、土器の内側や底面に墨で「寺」と書かれているために一般に墨書土器と呼ばれる土器が出土しており、平安時代の土器と考えられます(口径は13.2cmと12.5cm)。

曲庭遺跡・「寺」 与野西遺跡・「寺」
(曲庭遺跡出土墨書土器「寺」) (与野西遺跡出土墨書土器「寺」)

この土器自体移動している可能性もあるため、それぞれ発見された場所に寺院があったとはいえませんが、少なくても「寺」という建物の概念が存在していたことは確かです。
あるいは近くに「寺」と呼ばれる建物があったのかもしれません。

一方、火葬の風習を示す「蔵骨器」の存在も見逃せません。
中央区の八王子からは、灰釉のかかった平安時代の蔵骨器(愛知県猿投窯産といわれています)が工事中に偶然発見されています。

灰釉蔵骨器
(中央区八王子出土灰釉蔵骨器、県指定文化財)

中に熟年女性のものと思われる一体分の火葬骨が納められており、身長は150cm程度と推定されています。
当時の埋葬は一般には土葬で、火葬できる人は社会的身分の高い人に限られていましたし、火葬という行為は、当然仏教の影響によるものなのです。
大久保領家からも蔵骨器は発見されており、中央区から大久保領家にかけての地域には色濃く仏教の伝播が見て取れるのです。

大久保領家・蔵骨器
(大久保領家遺跡出土蔵骨器・・・長頸壺の頸部分を欠いて蔵骨器にしている)

与野郷土資料館では、上で紹介した根切遺跡のウルシ付着土器や「寺」の墨書土器を展示しています。


その14 古代の与野に仏教文化が伝わっていた証拠が沢山!!(その1)


その16 与野を代表する遺跡・南鴻沼遺跡(その1)「掻き傷のあるウルシの木」

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