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更新日付:2024年2月21日 / ページ番号:C081673

与野郷土資料館展示web解説(その30)

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与野を代表する板碑

寺院などでよく見かける板碑(いたび)は、鎌倉時代初期から戦国時代にかけて造られた死者の供養などを目的とした石造物の一つです。
関東地方で一般的に見られる板碑は関東型板碑といい、秩父郡長瀞町や比企郡小川町で産出される緑泥片岩(りょくでいへんがん)を石材にし、頭部を三角に成形して、梵字(ぼんじ)や図像で表わされた本尊と年月日等を刻んだものです。
旧武蔵国だけでも約3万基以上確認されているなど、埼玉の中世を代表する石造物といえます。

慈光寺板碑
関東型板碑の典型例(ときがわ町慈光寺)

板碑にはいろいろな情報が彫られていますが、その中でも板碑上部に彫られる梵字の種子(しゅじ)によって当時の人々の信仰が判明します。一般的には阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」が大多数ですが、大日如来の梵字(バン、アーンク)や「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」という文字を刻んでいるものもあります。

キリーク
阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」

日本で最古の板碑は熊谷市にある嘉禄3年(1227)のものです。また、日本で最大のものは長瀞町にある高さ537cmの板碑で(応安2年=1369年)、人間の背の高さの3倍以上の高さになります。県内で二番目の高さの板碑も蓮田市にあるなど(通称:寅子石、約4m、延慶4年=1311年)、埼玉県は質量ともに板碑の宝庫になっています。それは、石材産出地が近く、河川によって石材が運ばれたからに他なりません。

石材産出地
石材産出地(比企郡小川町下里)
見える石は加工のため切り落とされた破片で、ここで成形が行われていたことが判明します


さて、与野では約240基の板碑が残されています。失われてしまったものも当然あり、総数ではさらに多数造立されたはずです。
造立年代の判明する板碑は137基現存しており、正元2年(1260年)の阿弥陀一尊種子のものが最古で(鈴谷、妙行寺)、最新のものは天文年間(1551~1555)のものになります。その間、約300年間にわたって造立され、西暦1300年代後半から1400年代前半にかけてが最盛期で、この間にほとんどの板碑が造立されています(年代別造立推移はこちら)。
この推移は、造立された年代が判明するものについてですが、造立年代の判明しないものもほぼ同様の推移をたどっているものと考えられ、年代の判明するもの、しないものも含めて、与野の板碑の造立年代と基数の関係は、他の地域とほぼ同様の傾向を示しています。

正元2年銘板碑
正元2年銘板碑拓本(市指定文化財、与野最古、鈴谷妙行寺所蔵)

与野で最古の板碑の高さは84cmあり、上部に「キリーク」(阿弥陀如来)や蓮座を、下部には「正元二年三月 日」「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(こうみょうへんじょう じっぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅふしゃ)という浄土宗で拠りどころとする『観無量寿経』の一説を刻んでいます。阿弥陀如来を表わす「キリーク」や『観無量寿経』からすると、浄土信仰の影響が色濃く見て取れるものです。

造立当初は死者の供養や自己の生前における極楽往生を願う逆修(ぎゃくしゅ)供養が一般的でしたが、次第に同一の信仰で結ばれた「結衆」(けっしゅう)と呼ばれる人々が共同で造立する「月待」や「庚申待」といった民間信仰的な要素を持つようになります。

さて、与野の板碑で注目すべき例があります。円阿弥の共同墓地に、「正平七年二月三日」と彫られた阿弥陀一尊の板碑が存在しています。南北朝期の正平7年(1352)に造立されたもので、大きさや形状、種子などは極めて一般的なものです。しかし、実は正平7年2月と彫られた年号に注目する必要があります。

正平7年銘板碑
正平7年2月の年月を彫る板碑(円阿弥)

この時期、皇位継承をめぐって二つに分かれた皇統に、それぞれ武士が自身の利害関係に応じて組し、京都の足利尊氏を中心とする北朝勢力と吉野の後醍醐天皇を中心とする南朝の勢力に分かれて戦乱を繰り返しています。いわゆる南北朝時代です。
そのような中、足利幕府内では足利尊氏と弟直義の対立が表面化し、南朝と北朝、北朝の間でも尊氏と直義という三つの勢力が混在する状況となりました。尊氏は、東国にいた直義に対抗するため、背後を固める意味で観応2年(1351、北朝年号)10月から翌年まで数か月間一時的に南朝に降伏し、年号も南朝年号の「正平」に統一しました(「正平一統」と呼ばれています)。それにより、1351年11月から翌1352年閏2月までは南朝年号の正平6年と正平7年が使用されることになったのです。
北朝の勢力下にあった関東でも、1351年はそれまで観応2年という北朝年号を使用していましたが、尊氏降伏期間には南朝年号に変えています。この板碑に彫られた「正平七年二月」はまさに尊氏降伏期間にあたり、北朝の勢力下にありながら南朝年号「正平」が使用されているのはこのような事情によるものです。

そういえば、尊氏方の武将高麗経澄が「羽根倉」を始めとする関東各地での合戦の軍功を列記した「高麗経澄軍忠状」でも、文書の発出は正平7年正月(1352)という南朝年号を使用していますが、その前年のことを文中で「観応二(年)」(北朝年号)と記しています。
前年が観応2年ということは、北朝年号のままであれば、翌年は観応3年になるはずです。

高麗経澄軍忠状
正平7年高麗経澄軍忠状(個人蔵)
(高麗経澄軍忠状の翻刻文はこちら。高麗経澄軍忠状については、与野郷土資料館展示web解説(その12)「正平7年高麗経澄軍忠状と羽根倉合戦」でも触れています)。

なお、正平7年閏2月以降は、関東では再び北朝年号(観応や文和)を使用することになり、「文和」の年号を彫った板碑が与野にも存在しています。


その29 「与野道を歩く」(弐)


その31 近世の石造物といえばこれ!与野の庚申塔

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