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更新日付:2020年9月2日 / ページ番号:C070395

時の鐘とその周辺

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「時の鐘」

市指定文化財「時の鐘」は、江戸時代中期の享保5年(1720)に鋳造された銅鐘です。もとは、その49年前の寛文11年(1671)に当時の岩槻城主阿部正春が鋳造させたものでしたが、ひびにより鐘の音に不具合が生じたため、改鋳されました。それが、現在の鐘です。そしてこの鐘は、江戸時代以来の場所で、江戸時代に建てられた鐘楼にかけられ、今なお一日に3回、鐘がつかれ、その音色が時を告げています。
造られた経緯や経過が明らかな江戸時代中期の銅鐘の優れた作品としてはもちろんのこと、時の鐘にかかわるさまざまな要素が一体として保存されていることは、文化財としての価値を高めています。さらに、今でもその音色が時を告げていることは、とても意義あることです。

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夜明け前の時の鐘                  時の鐘 鐘

「時の鐘」にはどんなことが書かれているの?

時の鐘の表面には、116文字が刻まれています。鐘を鋳物で造り上げ、表面の磨きなどを行って仕上げた後、タガネなどの工具を使って文字を刻み込んだものです。
116文字で記された文章は次のようなものです。縦書きの漢文体で、漢字のみで記されています。左側に原文(横書きにして、句読点を補ってあります)、右側におおまかな内容を掲げます。

原 文

大 意

武州埼玉郡岩槻城下鳴時鐘者則
寛文十一年辛亥、城主予州刺史
阿部正春、所令冶工渡辺近江掾
正次新鋳也。至今五十年、釁郄稍
多而音響不調也。於是因仍旧制、
使江都良冶小幡内匠勝行改造焉。
冀夫声聞遠大於不朽也。

  享保五歳次庚子八月日
岩槻城主伊豆守大江姓永井氏直信誌

武州埼玉郡の岩槻城下に鳴る時の鐘は、寛文十一年辛亥の年に時の城主伊予守阿部正春が、鋳物職人の渡辺近江掾正次に命じて新鋳したものです。その後今まで五十年を経る中で、ひびが次第に多く生じてしまい、音響にも不具合が出てきました。そこで、以前と同じように、江戸の名工の小幡内匠勝行に改鋳させました。その鐘の音がいつまでも、遠くまで鳴り響くことを願います。

  享保五年庚子八月日
岩槻城主伊豆守大江姓永井氏の直信がこの鐘の鐘の文章を書きました。

■言葉の解説 こちらをご覧ください☞時の鐘■銘文の言葉解説(PDF形式 86キロバイト)
bubunnmeishou
鐘の部分の呼び方

tukizakarakusamonnyou
撞座(つきざ)                   唐草(からくさ)文様
蓮の花をかたどっています。中央は撞木(しゅもく)
が繰り返し当たるため、摩耗しています。

「時の鐘」があるのはどんな場所?

右の図は、江戸時代の岩槻城と城下町の様子を模式的に表したものです。図の中に赤kinseiiwatukijoutoい○をつけたところが、時の鐘がある場所です。ここは、城の中心部の南西に広がる武家地(武家屋敷ゾーン)の一画で、その北端部、庶民の居住区である町家(まちや)との境です。武家地の街路である渋江小路(しぶえこうじ)と、町家の中の町の一つである渋江町(しぶえまち)の街路との境にあたり、渋江口と呼ばれていました。ここには門と番所が設けられていました。この渋江口に接する武家屋敷の一画に時の鐘が設置されました。
当時の様子は、江戸時代後期の岩槻城絵図や、明治18年(1885)に旧岩槻藩士たちが往時を回想して制作した「岩槻古城八景」(「岩槻八景」)の中の一葉、「城口晩鐘」からうかがうことができます。また、将軍の日光東照宮参詣(日光社参)のために作成された街道絵図にも、岩槻城下町のランドマークとして、時の鐘が描き込まれています。












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「岩槻城并侍屋敷城下町迄総絵図」の渋江口周辺(江戸時代後期。さいたま市立博物館所蔵)

sirokuchibanshou
「城口晩鐘」(「岩槻古城八景」(岩槻八景)のうち。明治18年。さいたま市立博物館所蔵)

nikkoudouchuuezu
「日光道中絵図」に描かれた渋江口と時の鐘
(江戸時代後期。独立行政法人国立公文書館所蔵。画像は同館デジタルアーカイブ)
左手奥の高楼は岩槻城の櫓。右手の「一里塚」は、さいたま市岩槻人形博物館のあたり。

鐘 楼

鐘がかかる鐘楼は、袴腰造(はかまごしづくり)の二層の建物です。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)、瓦葺きで、四方から中央に向かって高さを増し、頂部の上に瓦製の路盤と宝珠が載っています。屋根の裏側、つまり下から見える面には天井板ははられておらず、屋根の木組みが露出しています。その頂部中央に鐘が釣られています。この屋根と鐘の重量は、地表に据えられた礎石4個に建てられた柱4本が直接支えています。柱は一辺25cmの角柱です。礎石の周囲は土間状となっていて、床張りはありません。これが1層目です。
2層目へは階段で上がります。2層目には床張りがありますが、中央部、つまり鐘の真下は吹き抜けとなっています。その床張り上に立つと、すぐ目の前に鐘が威容を誇り、西面側には撞木が吊られています。2層目の腰の高さに貫(ぬき)が通り、腰板がはられています。
現在の鐘楼の建築時期はよくわかっていませんが、のちにも紹介する嘉永6年(1853)銘の棟札が残っており、江戸時代末期に大規模な修理が行われたと考えられます。その後、大正頃と昭和32年(1957)に修理が行われたようです。そして平成4年度に大規模修理が行われました。この平成の修理の際には、市民の皆さまから修理費や屋根瓦等の御寄附をいただきました。この際に瓦は全体が新調されましたが、既にその段階で、多くの瓦が葺き替えられていたことがわかりました。

masitakarakaneturi
真下から見た鐘と屋根                龍頭と鐘のつり方
四角く組んだ架構を四本の柱が支え、そこに2本の    左の写真の右斜め上の方向からとった写真です。
巨材を渡し(鐘の左右に見える太い材木)、さら     左の写真とくらべてみると、鐘の重量を支える
にそこに交差して中央部に巨材をかけて(鐘の上     ために幾重にも材木を重ねていることがわかり
下にみえる材木)、そこに金具を打って鐘をかけ     ます。
ています。
上部に見える赤い円柱は鐘をつく撞木(しゅもく)
です。

基 壇

鐘楼は土を盛り締め固めた基壇の上に建っています。基壇の断面形は台形で、底面はおおむね13.1m四方、上面はおおむね7.4m四方で、高さはおよそ2.1mです。鐘楼自体は簡素な建物ですが、この基壇の上に建つことで、地上高10.5mの仰ぎ見る高さとなっています。

鐘つき

江戸時代中期の貞享4年(1687)の記録に、「鐘搗(撞)役」(かねつきやく)4名がいたことが記録されています。史料の記載位置などから、この4人は侍ではなく、足軽や中間(ちゅうげん)などであったと考えられます。4人の役割や鐘つき以外の仕事の内容はわかりませんが、恐らく4人が交替でシフトを組んで当番をしていたのでしょう。鐘をつく時間をはかる時計の管理や、鐘楼や敷地の掃除なども仕事に含まれていたと思われます。
それから141年後の文政11年(1828)に江戸幕府が編さんした武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう)という書物があります。江戸時代後期のさいたま市周辺の様子を知る基本史料の一つですが、その中の岩槻城の部分に次のような記述があります。

  渋江口門 大手門ノ西北にして岩槻往還より大手の方へ通ずる口なり。門内は士屋敷なり。
       これ内外境の口にして、外来の人容易に出入することを許さず。
    撞鐘 渋江口の内にあり。鐘には享保五年城主永井伊賀守鋳造の由を彫れり。渋江町
       の里正某が承りにて二六の時を報ずることを司れり。
             (『新編武蔵風土記稿』巻之二〇〇(埼玉郡之二、岩槻領 岩槻城並城下町)、国立公文書館所蔵)
               ※引用に際し、片かなを平仮名に改め、句読点・濁点などを補いました。

文中の「里正」とは、一般には村長、江戸時代では名主(なぬし)のことを指します。ここでは、城下町の中の町の一つである渋江町の名主のことです。この当時は、渋江町の名主が鐘つきを担当していました。この141年の間に岩槻城主は、松平家から小笠原家、永井家を経て、大岡家へと変遷していました。藩領経営を行う城主家がかわると、運営方法も変更されていたことがわかります。なお、「承りにて」とあるように、渋江町の名主が藩の命令を受けて鐘つきを行っていたことがわかります。何らかの手当が支給されていた可能性はありますが、形は変わっても、藩政の仕組みの中で鐘つきが続けられていたわけです。
また、「二六の時」(にろくのとき)とは、12の時刻を指すと考えられます。これには少し説明を要します。江戸時代まで、数字を二つ並べた表記が示す内容には、(1)二つの数を並列している場合、(2)二つの数字を掛け合わせた数を表している場合、という二通りがありました。なお、二けたの数字を表す場合には、必ず「十」の字を用いていましたから、「二六」が「26=にじゅうろく」を意味することは決してありません。
(1)の見方で「二六の時」を言い換えると、「二の時と六の時」ということになり、特定の時刻を指していることになります。一方、(2)の見方は、例えば四十九日を「七七日」と表記するのが実例ですが、これによれば「二六の時」は2×6=12ですから、「12の時」ということになります。この場合には、12の時刻を指していることになります。では、「二六の時」は、(1),(2)のどちらを意味しているのでしょうか。
江戸時代の時刻は、一日を12の時刻に分け、一単位の時刻を十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)て表すのが基本でした。「ニの時」や「六の時」という形で時刻を言い表すことはありませんでしたから、(1)の見方を採用することはできません。(2)は時刻のしくみとも合っています。これらのことから、「二六の時」とは、12の時刻を意味していると考えられるわけです。そして「二六の時を報ずる」とは、鐘をついて12の時刻を知らせることですから、昼夜を問わず、一日を通して12回、鐘をついていたことになります。まさに「時の鐘」だったわけです。
明治維新、そして廃藩置県により、藩政が廃止されると、時の鐘の鐘つきを続ける仕組みが失われ、鐘つきが途絶えました。その後、大正頃に朝夕6時の鐘つきが再興されました。この鐘つきは、御近隣の方の献身的な御努力で昭和から平成まで続けられました。その後、自動化され、さらに平成23年5月1日から正午にも鐘をつくようになりました。江戸時代から明治、大正、昭和、平成、そして令和。時代は移り変わっても、時の鐘は今も朝6時、正午、夕方6時の一日3回、時を知らせています。

敷地

時の鐘が設置されたという寛文11年(1671)以前、その敷地は岩槻城に仕える家臣の屋敷地でした。恐らく、1100平方メートル前後の大きな屋敷地だったと考えられますが、寛文11年にその一画が割き取られ、時の鐘の敷地とされたのでしょう。明治初期の記録では、時の鐘の敷地は180坪(1坪≒3.3平方メートル。180坪は約594平方メートル)とされています。

現在の時の鐘の敷地は、その後の変遷の中で時の鐘の用地として保存されてきた土地で、本来の時の鐘の敷地の一部と、隣接していた渋江口番所の敷地の一部を含んでいる可能性があります。
現在の時の鐘の敷地には、ランドマークともなっているイチョウの木と、そのイチョウの由来を刻んだ石碑があります。これらは、明治以降の時の鐘のあゆみや、時の鐘ゆかりの人々の関わりを物語ってくれます。
shouroukara鐘楼からみた敷地と隣接広場

石碑
時の鐘の基壇に登る階段の傍らにたたずんでいます。これは昭和11年(1936)に建立された「岩槻城墟碑」です。そこには、明治29年(1896)に最後の岩槻城主大岡家ゆかりの九条道孝公爵が来訪したことをきっかけとして、旧岩槻藩士たちの依頼により九条道孝が時の鐘の傍らにイチョウを植樹したことや、この石碑の建立に至る経緯などが刻まれています。

iwatukijoukyohi

石碑建立の経緯の大要は次のようなものです。

・明治29年から同32年にかけて、旧藩士たちは九条道孝への感謝と城の来歴を後世に伝える石碑の建立を企画したものの、実現できなかった
・そのときは漢学の大家で高等師範学校教授の南摩綱紀博士に碑文の撰文(文章を作成すること)を依頼し、文章までは出来上がっていた
・その後40年を経て、旧岩槻藩士たちが再度、石碑の建立を企画し今度は実現できた
・建立に当たって、旧岩槻藩士の家出身で東京府立第四高等学校校長の深井鑑一郎が依頼を受け、前回の南摩博士による撰文を石碑に刻む文字を書き、さらに建立の経緯を記した文章を作成しその文字も書いた

■石碑の銘文 こちらをご覧ください☞岩槻城墟碑銘文(PDF形式 59キロバイト)
                  岩槻城墟碑釈文(大意)(PDF形式 75キロバイト)

イチョウ
石碑に向かって左に鐘楼、右にイチョウがあります。幹の太さおよそ1.2メートル(地上1.4メートルのところ)のこのイチョウは、上掲の石碑の銘文によれば、明治29年に九条道孝が植樹したものです。明治から大正、昭和、平成、そして令和。時の鐘とともに社会の大きな移り変わりを乗り越えてきたこのイチョウは、時の鐘の傍らで、今も静かに時の流れを見据えています。

 なお、時の鐘敷地の東側には、土地所有者の方のご厚意とご協力により、時の鐘を訪れた方がゆったりと時を過ごせるように整備した広場があります。時の鐘を誕生させた「城下町岩槻」の説明板が設置してあります。ちなみに、こちらは、時の鐘設置までは同じ武家屋敷の範囲だった区画です。
joukamachiiwatukisetumei「城下町岩槻」説明板

関連資料

時の鐘ゆかりの資料を岩槻郷土資料館(さいたま市立博物館分館)で見学することができます。
※新型コロナウイルス感染症拡大防止対策のため、岩槻郷土資料館は現在、臨時休館中です。施設の開館状況は市立博物館ホームページで御確認ください。
市立博物館ホームページはこちら☞市立博物館

露盤宝珠
時の鐘の屋根の最上部に据えられていたものです。四方からせり上がり中央で集まる屋根の雨漏りを防ぎ、建物の威儀を整える大切な部材です。
瓦製で、下から、露盤(ろばん)、伏鉢(ふくばち)、宝珠(ほうじゅ)からなります。これらを組み合わせた全体を「露盤宝珠」といいます。
露盤は4つの部品を組み合わせて、一辺約77cmで高さ31cmの直方体の台を形作ります。その上に乗る伏鉢は、直径36cm、高さ32cmの円筒で、上部は丸みを帯びています。さらに最大径約31cm、高さ34cmの宝珠が頂部を飾ります。それぞれは銅製の針金と漆喰(しっくい)によって固定されていました。下の左側の写真は、昭和5年に刊行された『埼玉県名勝旧跡案内』に掲載された時の鐘の写真です。
破損が進んでいたため、平成4年度の修理の際に取り外され、現在は岩槻郷土資料館で展示されています。shouwagonenshasin
robantohouju
  瓦製の露盤宝珠(岩槻郷土資料館)

  屋根にのる路盤宝珠(『埼玉県名勝旧蹟案内』、元画像は国立国会図書館デジタルアーカイブ)

棟札

同じく岩槻郷土資料館では、時の鐘を修理した際に取り付けられた棟札も展示されています。棟札とは、建物を建築したり、修理したりした時に、その経緯や関係者名を記し、屋根裏等に取り付ける板のことです。古建築の建立や修理、変遷を知ることのできる、貴重な史料です。
時の鐘の棟札は、平成4年度の修理以前にすでに取り外されていました。恐らく、近代以降に行われた修理の際に取り外され、大切に保管されていたのだと思われます。下の写真を見ると、上部の年号の両側に縦長の黒ずんだところが見えます。これはこの棟札を鐘楼に打ち付けてあった当時の釘穴と釘のサビによって生じた汚れです。高さ約58cm、幅19~19.8cm、厚さ0.8cmです。釘穴の間隔は約12.5cmです。
この棟札には、下に掲げるような銘文(墨書)があって、幕末の嘉永6年(1853)に修理が行われたことを伝えてくれています。当時の岩槻藩の普請奉行とその配下の名前や、大工棟梁と大工、木挽、鳶頭など、修理工事の関係者名が記されています。この陣容からみて、小規模な修繕ではなく、かなり大がかりな修理だったことが推測されます。なお、明和7年(1770)に建立され、文政6年(1823)に修理された岩槻城の城門(市指定文化財「岩槻城城門(裏門)」)の墨書銘によれば、文政6年の修理の奉行は板谷官治と大塚代右衛門でした。嘉永6年の時の鐘鐘楼修理を担当した普請奉行大塚八郎左衛門はその一族(子か?)の可能性があります。また、大工棟梁として島田清治郎が藩の役人と同列に掲げられていますが、上記の城門の墨書銘によれば、明和7年の建立時と文政6年の修理時ともに大工棟梁は島田清右衛門でした(親子、あるいは祖父・孫間で同じ通称を称したの可能性があります)。苗字と通称の「清」が共通することから、彼らも一族の可能性があります。
なお、この棟札の内容は、『岩槻市史金石史料編 2 近世・近代』に収録されていますが、誤植と思われる箇所があるため、下に掲げた翻刻では、実物で確認し直したものを示してあります。
munafuda
※この写真は斜め下から撮影したため、上の幅が狭く、下の幅が広いようにみえますが、実際はほとんど同じ幅です。
大きな文字はこちら☞時の鐘棟札銘(PDF形式 18キロバイト)

 


見学の際には、マナーを守り、文化財の所有者や管理者、近所の方、他の見学者や参拝者の迷惑とならないようにお願いします。

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