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更新日付:2020年4月1日 / ページ番号:C070126

パネル展「100年前の自生地(田島ケ原サクラソウ自生地国指定100年記念展示)」

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パネル展「100年前の自生地」 ~桜区「田島ケ原サクラソウ自生地100周年記念展」連携展示

桜区役所が開催する「田島ケ原サクラソウ自生地100周年記念展」と連携して、100年前の自生地の様子を紹介するパネル展示を行います。
田島ケ原のサクラソウを多くの人が愛で、いとおしんできた100年。この100年は同時に、周辺環境が変容を重ねた100年でもありました。
自生地を次の100年も受け継いでいくためには、天然記念物としてその価値が高く評価された100年前に、自生地はどのような様子だったのかを確認することも大切なことです。このような観点から、「自生地の景観」と「三好学がとらえた自生地」という二つの切り口で、100年前の自生地の様子を垣間見ます。

期間:令和2年2月25日(火曜日)~3月27日(金曜日) ※土曜日・日曜日・祝日は休館です
8時30分~17時15分 ※2月25日は13時から開始です
会場:桜区役所 1階ロビー
(さいたま市桜区道場四丁目3番1号)
関連情報:(令和2年2月3日記者発表)田島ケ原サクラソウ自生地100周年記念展を実施します

自生地の景観
100年前に作成された自生地周辺の詳細な地図を紹介します。そして、その後の100年で生じた自生地周辺の景観の移り変わりをたどります。

これに注目!

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荒川省略河川台帳平面図(部分、加工) さいたま市アーカイブズセンター
この図は、大正6年から8年に行われた測量を基にした地図です。100年前の自生地周辺の様子が大変詳しく描き込まれています。ここでは、土地利用の様子を読み取りやすいように、主な利用別に色分けし、さらに田島ケ原サクラソウ自生地の現在の範囲を赤色の破線で示してあります。
100年前、自生地のまわりは、茅(かや)が一面に生い茂る河川敷の原野、と思われがちですが、人の暮らしや活動と共生した景観が広がっていることが、この図からはわかります。たとえば、すぐ北側を道路が通り、この道が荒川を渡る場所には既に秋ヶ瀬橋が架けられています(江戸時代には「秋ヶ瀬渡し」という船による渡し場がありました)。この道は、中山道の浦和宿(浦和区)と、新河岸川・柳瀬川の河岸場(かしば=河川の港)として物流の拠点となった引又(ひきまた。志木市)とを結ぶ、地域物流の重要な路線でした。また、橋の近くを中心に10軒以上の人家があり、広い範囲が畑(オレンジ色)となっています。地域経済の動脈が横断し、さらに河川敷で荒川などの増水の影響を受けやすいこの場所で、水と闘いながら営まれた暮らしが、自生地の傍らには広がっていました。
但し、こうした景観が100年前よりも前から変わらないものかというと、決してそうではありません。江戸時代中期に荒川沿岸の河川敷の開発が幕府により奨励され、茅場としての用益とともに、開墾が進んでいました。茅葺屋根の材料などとして茅を刈り取ることが、サクラソウの生育条件を維持するという、人と植生とが共生するあり方から、耕地として人優先の環境に変えていく営みへの緩やかな動きの中に、100年前の自生地は置かれていたのです。
それでもなお、自生地の範囲の大半はやはり「茅地」でした(畑や桑畑となっているところがあることには注意が必要です)。北側には、激しく蛇行する小河川(図の中には「沿河」(そいかわ?)とその名が注記されています)が北東から荒川に向かって流れていて、図の中程では自生地の北辺間際までその流路が迫っていました。上記の浦和宿-引又間の街道が南へと緩く湾曲しているのも、この川の流れを避けたためでしょう。南側には、当時は大きく蛇行していた荒川の曲流部が迫り、自生地の東側に沿って、北から南へと流れる小河川(「新沿河」(しんそいかわ?)と注記されています。その後河川改修により、鴨川となる川です)がその曲流部に注ぎ込んでいます。大小の河川が乱流し、オギやヨシなどの茅が生い茂る原野という景観も、なお面影を留めていました。
こうした景観がその後、どう変わっていくのか。是非、パネル展をご覧ください。
みくちメモ
・ひと口目~この図 この図は、洪水対策として事業化された荒川改修事業の一環として埼玉県によって作成されたもので、原図は500分の1の縮尺で作成されました。原本にあたる図は、埼玉県立文書館などに伝えられていますが、この図は旧土合村の範囲を3000分の1の縮尺で編さんした集成図で、旧土合村役場がおそらく埼玉県から配布されて、業務に使用していたものです。現在は、さいたま市アーカイブズセンターが所蔵しています。
・ふた口目~土合村 土合村は、江戸時代以来続いた11の村が明治22年(1889)に合併して誕生した近代村です。明治22年当時、町村制が施行され、財政力を備えた町村の編成が進められていました。こうした動向の中で、南元宿、西堀、関、鹿手袋、田島、新開、道場、町谷、栄和、中島、山窪(山久保)の11村が合併したのです(なお、栄和村はこれ以前の明治10年(1877)に西蓮寺村と千駄村が合併して誕生)。11(十一)の村が併したことから、「十一」を「土」に見立てて村名が決められました。その後、昭和30年(1955)に浦和市と合併してその一部(土合地区)となり、さいたま市誕生後の区制施行に伴い、関と鹿手袋が南区に編成され、それ以外は桜区の一部となりました。
・み口目~サクラソウ自生地がワン・チームに? たくさんの村々が集まって誕生した土合村。旧村には、人口が多い村、商業も盛んな村、それぞれの特徴や強みがありました。そうした村々が新しい一つの村として一致団結していくには、時間の経過が必要だったようです。合併から10年以上たっても、力のある旧村の間で波乱が生じることもあったらしいことが、当時の記録からうかがわれます。そうした中、明治時代の後半、田島ケ原サクラソウ自生地がサクラソウの名所として脚光を浴びるようになると、観覧客の来訪による地域の活性化につながる村の重要資源となりました。自生地の土地は、村内の複数の旧村の人々の所有地であったことから、村内の人々が協力して自生地の保全と活用に関わるようになりました。土合村が「一つの村」となる上で、自生地はいささかの役割を果たしたのではないでしょうか。

植物学者・三好学がとらえた自生地
自生地が国の天然記念物となる上で、大きな役割を果たした三好学は、多数残した著作の中で、美しい図や写真を使って、100年前の自生地の様子を紹介しています。

これに注目!
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「桜草原野の植物」(三好学『人生植物学』(1918年)口絵)
100年前に自生地が国の天然記念物となる上で、大きな役割を果たした人物の一人に、三好学がいます。三好学は、植物学者で、当時、東京帝国大学の教授でした。三好は、わが国における植物学研究・教育の確立に尽力するかたわら、自然的遺産と、それとともに形作られた景観を保全する必要性を社会に訴え、天然記念物保存制度の創設に大きな役割を果たしました。そして、自生地指定に大きな役割を果たしたもう一人の人物・深井貞亮との出会いなどを通じて、田島ケ原サクラソウ自生地の学術的意義を高く評価し、やがて創設された天然記念物保護制度のもとで、その指定を実現させました。
ふたくちメモ
・ひと口目~「景観」と三好学 今日、あたりまえのように使われる「景観」。この言葉をつくった(ことばの意味・内容(概念)を決め、「景観」という文字を充てた)のは、三好学であると考えられています。植物を純学問的に探究するとともに、人と植物との関わりにも深い関心を寄せていた三好学。文学の道を目指していた彼は、植物が織りなすありさまが人にわき起こさせる感動に打たれ、植物学研究の道へと進みました。景観ということばの創出と、天然記念物保存運動。この二つは、植物学者・三好学の原点に根差した業績といえるでしょう。
・ふた口目~三好学と深井貞亮 田島ケ原サクラソウ自生地の天然記念物指定を実現させた功労者です。この二人の功績を紹介する展示を市立浦和博物館で開催します。
くわしくは、こちら☞記念展チラシ(ポスター兼)■2・3月開始分(PDF形式 1,533キロバイト)をご覧ください。

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電話番号:048-829-1723 ファックス:048-829-1989

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