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更新日付:2020年11月13日 / ページ番号:C062526

北方領土問題

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さいたま市では、「北方領土返還全国強調月間」である2月及び8月に北方領土問題への関心を高めるため、本庁舎内に啓発パネルを掲出しております。                                                                                                                       北方領土の返還実現のためには、すそ野の広い返還運動に粘り強く取り組み、幅広い国民世論を結集して、外交交渉を後押ししていくことが重要です。一人ひとりが、北方領土問題について、理解を深めましょう。

問1:「北方四島」とはどこに位置し、何という島々ですか?面積や高度は、どのくらいですか?

答:北方四島とは、北海道北東の洋上に連なる歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島及び択捉(えとろふ)島の島々を指します。四島の総面積は5,003平方キロメートルです。都道府県で見ると、これに一番近い面積を持つのは、千葉県(5,158平方キロメートル)、福岡県(4,986平方キロメートル)です。四島のうち、一番大きな面積をもつ島は択捉島で、3,167平方キロメートルです。これは総面積の63%になります。国後島には爺爺岳(標高1,772m)が、択捉島には西単冠山(標高1,629m)等があり、山がちな地形ですが、色丹島や歯舞群島は比較的なだらかな形状をしています。

問2:根室半島の岬から最も近い島は、どこで、その距離はどのくらいですか?

答:北方四島の中で最も近い島は歯舞群島の一つである貝殻島で、納沙布岬からの距離は3.7キロメートルです。

問3:北方四島に行ってはいけないのですか?

答:我が国固有の領土である北方領土には,現在もロシアが法的根拠なく占拠しています。こうした状況の中で、第三国の民間人が当該地域で経済活動を行うことを含め、北方領土においてあたかもロシア側の「管轄権」に服したかのごとき行為を行うこと、または、ロシア政府にビザを申請するなどあたかも北方領土に対するロシアの「管轄権」を前提としたかのごとき行為を行うことは、北方領土問題に対する我が国の立場と相容れず、容認できません。
したがって、日本国政府は、広く日本国民に対して、1989年(平成元年)の閣議了解で、北方領土問題の解決までの間、ロシアの不法占拠の下で北方領土に入域することを行わないよう要請しています。
ただし、特例的に日露両国間で設定された枠組みによる訪問、交流等は行われています。

問4:「北方四島が我が国固有の領土である」という根拠は何ですか?

答:日露両国は、今から160年以上前の1855年2月7日に、日魯通好条約を結び、両国の国境を択捉島と、その北に位置するウルップ島の間と定めました。つまり択捉島までは日本の領土としました。
1875年には、両国は樺太千島交換条約を結び、我が国はロシアに対して樺太全島を譲り渡す代わりに、千島列島最北部のシュムシュ島からウルップ島までの18島をロシアから譲り受けました。これにより、我が国の領土は、択捉島までの北方4島はだけでなく、ウルップ島から北の千島列島まで拡大しました。
日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。
それ以前も、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。それ以降、北方四島が他国の領土となったことはありません。
しかし、第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した直後の同年8月28日から9月5日の間に北方四島のすべてを占領しました。当時、四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1948年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降今日に至るまで、ソ連、ロシアにより,法的根拠のない形で占拠が続いています。

問5:第二次大戦終戦時に、北方四島に居た日本人は、どうなったのですか?

答:当時、北方四島には約1万7千人の日本人が住んでいました。1948年までに、この全員が、ソ連により強制的に、北海道以南の日本に引き揚げさせられました。

問6:1956年の日ソ共同宣言とはどのようなものですか?

答:ソ連がサンフランシスコ平和条約への署名を拒否したため、我が国はソ連との間で平和条約交渉を別途行うこととなり、1956年、ソ連との間では日ソ共同宣言を締結して、戦争状態を終了させ、外交関係を再開しました。日ソ共同宣言は、両国の立法府での承認を受けて批准された法的拘束力を有する条約です。
同宣言において、両国は、正常な外交関係が回復された後、平和条約の交渉を継続することとなっており、またソ連は、平和条約の締結後に歯舞群島及び色丹島を我が国に引き渡すこととなっています。

問7:1956年当時、なぜ平和条約が締結されずに、「日ソ共同宣言」という名称の条約が締結されたのですか?

答:1956年当時、日ソ両国は平和条約を締結すべく交渉を行っていましたが、我が国が一貫して返還を主張した北方四島のうち国後島及び択捉島の帰属の問題について合意が達成できなかったため、とりあえず共同宣言を締結して外交関係を回復し、平和条約交渉を継続することとして、領土問題の解決を将来にゆだねたからです。

問8:現在、北方四島への訪問、北方四島に住んでいる人達との交流等は行われているのですか?

現在、我が国政府は、日本国民の皆さんに対して、ロシア側の出入域手続に従うことを始め、ロシアの求めに従う形で北方四島に入域しないよう要請しています。しかし、特例的に日露両国間で設定された以下の四つの枠組みによる訪問、交流等は行われています。

  1. 北方墓参
    1964年から、元島民及びその親族による北方四島の墓地への墓参が行われています。2015年末までにのべ4,405人が訪問しました。
  2. 四島交流
    1992年4月から、相互理解の増進を図り、領土問題の解決に寄与することを目的として、我が国国民と北方四島の住民との間で相互訪問が行われています。2015年末までにのべ21,298人が参加しました。
  3. 自由訪問
    1999年9月から、元島民及びその家族による北方四島にある元居住地等への訪問が行われています。2015年末までにのべ3,810人が参加しました。
  4. 人道支援
    北方四島の患者の受入れ等、真に人道的に必要な場合には、北方四島在住のロシア人への支援が行われています。 

問9:北方領土の日は何故定められたのですか?また、何故2月7日が選ばれたのですか?

答:北方領土返還要求運動は、北方領土に隣接する北海道・根室地域から全国に展開していきましたが、北海道をはじめ運動を熱心に進めている民間の各団体から、「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、運動の全国的な盛り上がりを図るためには『北方領土の日』を設けるべきである」、という声があがってきました。また、昭和55年(1980年)11月には、衆・参両院において全会一致で「北方領土の日」の設定を含む、北方領土問題の解決促進に関する決議が行われたのを始め、全国の地方関係団体等においても相次いで同様の決議が行われました。
このような各方面からの強い要望を受け、政府はさらに広く関係各層の意見を聞いた上で、昭和56年(1981年)1月6日の閣議了解により、2月7日を「北方領土の日」として設定しました。
なお、2月7日は、1855年日魯通好条約が調印された日であります。

(以上、問と答は、内閣府北方対策本部による。)

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