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更新日付:2013年12月24日 / ページ番号:C003626

緑区の歴史、沿革

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見沼通船堀

 緑区はさいたま市の南東部にあり、台地と低地からなる。この地に初めて人々が住みついたのは、今から約2万5千年前と考えられる。旧石器時代の遺跡は、赤土の中にある。松木、和田北、北宿西、間宮宮後などの遺跡がある。貝塚の時代、初期稲作の時代、古代などの集落遺跡が台地上に多く見られる。常に人々の居住に適していたことに他ならない。貝塚としては、山崎貝塚、代山貝塚、大古里遺跡内貝塚などが知られる。約6000年前のものである。当時、いまの東京湾が奥深く入ってきていた。馬場小室山遺跡からは人面画付き土器が見つかった。縄文時代晩期のものである。また、井沼方遺跡からは弥生時代の墓が見つかり、中から鉄剣やガラスの首飾りが出ている。氷川女體神社は、武蔵国一宮とされた古社である。また古代創建と伝える寺院として、吉祥寺、玉林院などがある。玉林院は、山伏修験の中心的な寺院であった。古代の牧場の時代などを経て、武士の時代に入った。各地に板石塔婆が建てられた。大興寺のものは金泥が塗られた画像のもので、大変珍しい例である。代山には岩槻太田氏の家臣山田大隅または小久保縫殿助の居城がある。

 近世には、見沼溜井から見沼干拓という大土木事業がなされた。続いて見沼通船事業が開始された。その遺跡見沼通船堀は、パナマ運河と同じ閘門式運河として知られる。古代の奥州街道は中世には鎌倉街道となっていたが、江戸時代には日光御成道となり、大門に宿場が置かれた。幕府直轄地や岩槻藩領、旗本支配地などがあったが、旗本支配を知る史跡として中野田の明照寺には春日家の墓がある。国昌寺の2世大雲文龍は書家としても著名である。清泰寺に葬られている見性院は武田信玄の娘である。旧大牧村に所領を持っていた。見性院が育てた男子は徳川秀忠の子で後に会津藩主保科正之となった武人である。安行植木開発の祖吉田権之丞は大間木の出とされる。今日までこの地に緑が残っているのは、ひとつには苗木植木産業によるものといえる。蘭学を学んだ高野隆仙は、大間木の人である。高野長英の逃亡を助けたかどで捕縛された。近世を通じて、緑区域は紀州徳川家の鷹場であった。そのなかで野田のサギ山は「紀伊殿囲鷺」として保護されてきた。昭和になって国の天然記念物、さらに特別天然記念物までなったが衰亡し、解除された。いま、近くにさぎ山記念公園がある。

 明治22年、町村制の施行で谷田、尾間木、三室、野田、大門の5つの村ができた。浦和越谷間乗合馬車、武州鉄道ができたり、乗合自動車が通ったりした。この地は、次々と浦和町、浦和市に合併、大浦和の一翼を担っていた。武蔵野線の開業、区画整理、大牧三室線、国道463号線の整備など都市の姿が整い、また公園、福祉、文化、スポーツ、環境の施設も次々に整備され風格ある都市となってきた。平成13年、さいたま市に入り、同15年、さいたま市は政令指定都市となり、緑区ができた。東北自動車浦和インターがあり、東北の玄関となっている。地下鉄埼玉高速鉄道線が引かれ、その先に埼玉スタジアム2002があり、そこで平成14年にサッカーワールドカップ大会4試合が行われた。今、緑豊かな落ち着いた住宅地となっているが、江戸時代から続いている植木、苗木、花き産業も盛んである。

この記事についてのお問い合わせ

緑区役所/区民生活部/コミュニティ課 
電話番号:048-712-1130 ファックス:048-712-1272

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