メインメニューへ移動 メインメニューをスキップして本文へ移動 フッターへ移動します


ページの本文です。

更新日付:2024年3月29日 / ページ番号:C113871

第7回特別展 「円空-激情に秘めた祈り-」

このページを印刷する

昭和60年7月30日(火曜日)から昭和60年9月1日(日曜日)

埼玉県内で確認された円空仏は130余体あり、その半数近くにあたる62体が大宮市に残っています。市制45周年、博物館開館5周年を記念して、県内の円空仏のうち109体を一堂に展示し、円空の足跡や、彫刻に込められた願いを考える展示を開催しました。

展示構成

円空の足跡 1.円空の生涯

円空は、江戸時代前期から中期にかけて、諸国を巡り歩いた遊行僧であり、修験道でいう優婆塞聖(うばそくひじり)です。特異な仏像や神像をおびただしく残し、その行動と彫刻群の持つ異端性ゆえに世に知られましたが、自伝や同時代の行状を記した記録が少なく、その境涯は今もって不明な点が多く、伝承によるばかりです。

2.円空と大宮

関東地方では、円空が作った仏像が日光にあることは知られていましたが、埼玉県にはないとされていました。昭和36年(1961)、大宮市(現・見沼区)南中野にある正法院境内の薬師堂にある13体の像が、円空の作であることがわかり、これをきっかけに、市内では宮ケ谷塔の観音堂、砂(現・見沼区東大宮)の観音堂など、また埼玉県東部の各地でも円空仏が確認されはじめました。栃木県や群馬県の紀年銘のある資料から、円空は延宝8年(1680)~天和2年(1682)と元禄2年(1689)に関東地方に来ていることがわかっており、埼玉にもおそらくこの時に立ち寄っていたと考えられます。
正法院の十二神将像
写真:正法院薬師堂の十二神将像
 

日光周辺の円空仏3.日光と円空

男体山をはじめとする日光の山々は、古くから山岳信仰の対象となり、奈良時代に勝道上人という僧が道を開いてからは、修験者たちが多く集まるようになりました。江戸時代には徳川家康の霊を祀る東照宮が日光に造営され、ますます繁栄しました。7月7日に行われる「男体禅頂」(修行のための登山)は、修行僧のほか一般の人も参加でき、ご利益を願う人々で賑わいました。
円空も日光を訪れ、日光山や周辺に多くの仏像を残しています。このうち、広済寺(現・鹿沼市)の千手観音像には天和2年(1682)9月9日、明覚院(現・日光市)の観音像には元禄2年(1689)6月の墨書があり、訪れた時期がわかります。

4.円空仏の世界

円空が作った神仏像は全国で4,500体以上が確認されており、多様な造仏活動には驚かされるばかりです。

正法院薬師堂薬師如来薬師如来

薬師如来は、病気やけがなどの苦しみから人々を救い、また、心の病を和らげてくれる仏です。その多くは両手で薬壺を持っている姿をしています。また、十二神将は薬師如来の下で、仏教の修行者を守る12の守護神で、いずれも悪を許さぬ恐ろしい形相をしています。
左写真:正法院薬師堂の薬師如来像(見沼区南中野)

十一面観音

頭上に11の顔を持つ観音です。前の3面は慈悲の顔、左3面は怒りの顔、右3面は白い牙を上に向けた顔、また後1面は悪をあざけり笑う顔、頂上には阿弥陀如来の姿をした化仏がついている姿が普通です。いろいろな病を退け、財宝をもたらすとともに、水難、火難にあわず、風邪などの病気にかからず長生きをするという功徳があるといわれます。

松本家天神像民間信仰の世界

円空の時代には、仏教だけにこだわりませんでした。円空も仏像だけちょうこくしたのではなく、神社があればその祭神を、というように、人々が古くから信仰してきた神々を何でもつくりました。
左写真:天神像(見沼区島町)
 

宝積寺役行者像修験道の世界

円空は蓮田市の南学院・宝蔵院や春日部市の南蔵院・観音院・不動院という修験の寺に、様々な神仏像を残しています。秋葉大権現や愛宕大権現など山岳に住む火防の神、修験の祖と言われる役行者像。また、円空の作品の中でも多いのが、修験の寺の本尊となっていることの多い不動明王です。
左写真:宝積寺の役行者像(見沼区深作)

5.庶民の信仰と木の彫像

円空の彫像が300年の時を隔てて私達の心を打つのは、熟成度の高い様式が保有する永遠性と、様式を生み出した円空の精神性によっています。円空の没後、弟子の円舜・円長は、法灯は継ぎますが作像はしていません。<円空様式>も継承はされませんでしたが、造像による布教は様々な人々によって実践され浸透していきます。各戸に仏像を持つ在家仏教のありかたは、円空が徘徊した時代あたりからはじまりました。庶民は小さな木の彫像に心を託すようになっていったのです。こうした庶民の像は、親から子へと大切に伝承されていくものもあれば、消費されてゆくものもあるのが特色です。いつかお焚き上げされたり、川に流されたりしながら消えていったのです。
円空は生涯で12万体の造仏を目標に掲げていました。実現したかどうかは疑問ですが、現在確認されている量とは比較にならないたくさんの像がつくられたはずです。各地の伝承が示しているように、子ども達の遊び相手となり身を粉にして木塊に戻ったり、海中に投じられたりしながら消えていったのです。各戸に配られたがゆえに残らなかったのです。それもまた円空の作る仏・神像の特色でしょう。

展示図録

図録表紙大きさ B5版 56ページ
※図録の頒布は終了しました。
※市内の図書館などで閲覧できます。>さいたま市図書館ウェブサイト(蔵書検索ができます)

関連リンク

この記事についてのお問い合わせ

教育委員会事務局/生涯学習部/博物館 
電話番号:048-644-2322 ファックス:048-644-2313

お問い合わせフォーム