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更新日付:2024年4月15日 / ページ番号:C113241

第13回特別展 「寿能城と戦国時代の大宮」

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平成2年8月4日(土曜日)から平成2年9月2日(日曜日)

戦国時代末の永禄3年(1560)に築かれたとされる寿能城と、その城主である潮田(うしおだ)氏にスポットをあて、武蔵国と大宮周辺を舞台に繰り広げられた武将たちの軌跡をたどるとともに、当時の村に暮らす農民たちの生活や信仰についても展示しました。

展示構成

第1部 寿能城と潮田氏

主な展示資料

太田資正判物太田資正判物(右写真):永禄3年(1560)個人蔵・市立博物館寄託
岩槻城主太田資正がその三男(もしくは四男)である潮田資忠(うしおだすけただ)に「大宮浦和之宿木崎領家方迄」の所領を安堵したもの。この判物の発給年の永禄3年が寿能城築造の時期と推定されている。
小田原評定衆裁許状:天正2年(1574)氷川神社蔵・市指定文化財
天正2年、寿能城主の潮田氏と領内権門である氷川神社との間に、宮山での年中祭礼用に使う立木伐採をめぐる紛争が起きている。
御検地帳大宮之村:天正20年(1592)個人蔵
徳川家康は関東入国後、かつての寿能城領「大宮之村」の検地を行った。検地帳に記された名請人には「大塚・河目・金子・大成沼田・石河・小嶋・潮田・野本・吉野・土呂土呂・天沼」など苗字で請けているものがおり、寿能城の給人衆であったと思われる。
 

第2部 戦国時代の武蔵と大宮

主な展示資料

北条氏綱制札:大永4年(1524)氷川女體神社蔵・市指定有形文化財
足立郡への進出をはたした北条氏綱は三室郷に禁制を発給し、軍勢の濫妨狼藉を禁止した。
太田資正判物:天文18年(1549)慈恩寺蔵・市指定有形文化財
岩付城主太田資正は太田庄の慈恩寺に本坊・新坊六十六坊を安堵した。慈恩寺は六十六坊を擁する大伽藍であった。
大般若経識語(部分):戦国時代 氷川女體神社蔵・浦和博物館寄託・県指定文化財
永禄5年(1562)の記事に「廿六日水判土慈眼坊焼失。敵動」とあり、北条勢が慈眼坊(現慈眼寺)を焼討ちしたことがわかる。
 

第3部 戦国の世と戦いの武器・武具

主な展示資料

雑兵物語:江戸時代 東京国立博物館所蔵(写真展示)>東京国立博物館画像検索で見る
鉄砲足軽、弓足軽、鑓担・馬取などいわゆる足軽の功名談、失敗談、見分談からなる物語戦陣訓で、豊富な挿絵と、奴言葉を駆使した読み物である。
永楽通宝紋鞍・永楽通宝紋鐙:永正2年(1505)上尾市妙厳寺蔵・上尾市指定文化財
妙厳寺の中興開基である領主西尾隠岐守吉次の所用品であったと伝えられる。
 

第4部 戦国の村人の暮らしと心

木造地蔵菩薩坐像主な展示資料

大窪郷地頭方三分一方田畑注文:応安2年(1369)正木文書・福井市立郷土歴史博物館寄託(写真展示)
大窪郷(現桜区大久保地区)に関わる資料。当時の農民構成や年貢・公事のほか、民俗行事をめぐる領主と農民の関係や、年貢・公事の由来を考える上でも貴重な資料である。
与野郷の堤築造のための人足徴発のための文書。村では「郷中百姓其外給衆相談」のうえ対処したらしい。
木造地蔵菩薩坐像(右写真):南北朝時代 高木地蔵堂蔵・県指定文化財(複製展示)
室町時代に現・西区高木辺りにあった、臨済宗建長寺(鎌倉)の末寺である本願寺の本尊として安置されたものと考えられている。

第5部 寿能城落城から近世社会へ

主な展示資料

豊臣秀吉朱印状:天正18年(1590)埼玉県立文書館蔵・県指定文化財
岩付城の陥落後の措置について、豊臣秀吉が配下の本多忠勝・鳥居元忠・平岩新吉に指示を行った文書。男は一人も漏らさぬよう討果たさせ、女子供は此方へ届けよ、などの内容である。
軍扇・鞍:江戸時代 根岸家蔵・鴻巣市指定文化財
徳川家康が鷹狩に訪れた際に休憩の世話をした家が賜ったものと伝えられる。
 

展示図録

図録表紙大きさ B5版 80ページ
※図録の頒布は終了しました。
※市内の図書館などで閲覧できます。>さいたま市図書館ウェブサイト(蔵書検索ができます)

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電話番号:048-644-2322 ファックス:048-644-2313

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