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更新日付:2024年5月4日 / ページ番号:C113681

第35回企画展「鴻沼」 展示Web解説 その2

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第35回企画展「鴻沼」 展示Web解説 その2

令和6年3月9日から6月9日まで開催中の、第35回企画展「鴻沼(こうぬま)」の展示を紹介します。

2.鴻沼の干拓

干拓以前の鴻沼

干拓される前の鴻沼は周辺の村々によって農業用の溜め池として活用されていました。
近世前期には、足立郡関村(現在の南区関)に五カ所の圦樋(いりひ)(水門)が設けられており、そこから沼の周辺や下流の町や村々(与野町・小村田村・鈴谷村・上峰村・山久保村・本宿(元宿)村・町谷村・道場村・新開村・西堀村・田島村・四ツ谷村・関村・鹿手袋村・西蓮寺村・中島村・仙田(千駄)村の十七か町村)に用水が配水されていました。
この村々は用水組合を結成し、鴻沼や圦樋、用水路の維持管理を行いました。
享保11年(1726)の「与野領絵図」では、この用水路の様子を見ることができます。

与野領絵図与野領絵図解説

(クリックすると拡大します)

与野領絵図

享保11年(1726)/個人蔵(さいたま市アーカイブズセンター寄託)

鴻沼の干拓と新田開発

江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗は幕府の財政を立て直すため、新田開発を全国的に推し進めました。
関東地域では、干拓事業で名を馳せていた紀州藩の土木技術者・井澤弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)を抜擢し、享保12年(1727)に足立郡最大の溜め池だった見沼溜井(みぬまためい)の干拓を開始しました。
まず新たな水源を利根川に求め、埼玉郡下中条村(さきたまぐんしもなかじょうむら)(現在の行田市下中条)から取水し、見沼代用水路を完成させ、享保13年(1728)には見沼新田の開発を成功させます。
 
弥惣兵衛は次いで享保14年(1729)、下落合村(現在の中央区下落合)から鹿手袋村(しってぶくろむら)(現在の南区鹿手袋(しかてぶくろ))に至る、南北に細長く伸びた鴻沼の開発を行うよう言い渡されます。
与野町・鈴谷村・上峰村(うえみねむら)(いずれも現在の中央区)をはじめとした、鴻沼の溜井を利用してきた十七か町村は、開発によって水が足りなくなることを恐れて反対しましたが、これは聞き届けられませんでした。
 
干拓に用いた手法は見沼と同様で、まず水源を見沼代用水西縁から得るため、北袋村(現在の大宮区北袋町)から上落合村(現在の中央区上落合)を通る導水路を掘削し、下落合村から鴻沼の東西に分岐させた新たな用水路をつくりました。
また、これまで鴻沼に注いでいた切敷川(霧敷川)を西縁用水路につなぎました。
東西の用水路から水田に流した水は中央の排水路に集め、これまで溜井から水を引いていた用水路へは、東西の用水路に設けた堰から水を流すようにしました。
これは「紀州流」と呼ばれる弥惣兵衛が得意とする開発方式で、用排水を分離することで溜井下流域の用水源を失うことなく開発することができました。
こうして享保16年(1731)に完成した高沼新田はすべて幕府直轄領となり、近隣の九か町村(与野町・下落合村・中里村・鈴谷村・大戸村・針ヶ谷村・西堀村・関村・鹿手袋村)に分割されました。
 
干拓前の鴻沼 干拓後の鴻沼
干拓前の鴻沼 干拓後の鴻沼

鈴谷村絵図
(クリックすると拡大します)

鈴谷村絵図

年未詳/個人蔵(さいたま市立浦和博物館寄託)

地図の左側に鴻沼が干拓されてできた高沼新田が描かれています。
区画ごとに「○○新田」と書かれており、周辺の村々に分割されている様子がわかります。

沼影村と鹿手袋村の水を巡る争い

開発以前の鴻沼は周辺の村々の灌漑用溜め池として利用されてきましたが、干拓や新田開発が始まったことにより、水を巡る新たな争いごとが起こりました。
その中のひとつが、沼影村と鹿手袋(しってぶくろ)村との間で起こった、用水路の分水の量をめぐる争いです。
 
沼影村は鴻沼の南側にあたり、鴻沼の開発の計画が立てられると、高沼新田用水組合への加入を享保13年(1728)に願い出ました。
しかし用水の流末にあたる沼影村では期待したほどの用水量の供給が得られず、享保15年(1730)に井澤弥惣兵衛あてに鹿手袋村の分水樋口が高く不公平だとの訴えを出します。

しかしながら供給は改善されず、享保16年(1731)、ついには鹿手袋村の村民と乱闘騒ぎになってしまいます。

この騒ぎの後、鹿手袋村側が沼影村の乱闘の際の非道を井澤弥惣兵衛に訴えています。

古文書1

用水築留出入につき御吟味願

享保16年(1731)6月/さいたま市アーカイブズセンター蔵

翌月の7月には沼影村からの返答書が出ています。
ここでは、鍬や鎌を持って襲撃したわけではない、鹿手袋村の村民の怪我の具合はそこまで重くないはずだ、などの鹿手袋村との見解の相違があることが書かれています。

古文書2

用水築留出入につき返答書

享保16年(1731)7月/さいたま市アーカイブズセンター蔵

さらに翌月の8月、この事件は幕府評定所の吟味の結果、用水の配分の取り決めを厳守して村々は互いに融和するようにとされ、和解しています。

古文書3

沼影村鹿手袋村堰築留出入済口証文

享保16年(1731)8月/さいたま市アーカイブズセンター蔵

数多くの村方文書に残されているとおり、新田開発の裏で、このような水を巡る争いは絶えなかったのです。

その1 「1.鴻沼とは」


その3 「3.井澤弥惣兵衛の功績」

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