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更新日付:2023年5月26日 / ページ番号:C074458

与野郷土資料館展示web解説(その11)

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氷川社領だった上落合村

天正18年(1590)に関東に入国した徳川家康は、由緒ある寺社に対して所領の寄進を行い、翌19年11月に大宮氷川神社に対して足立郡大宮の内で100石の社領を与えています。
その後、慶長9年(1604)3月に新たに上落合村で200石の社領を寄進し、合わせて300石としています。
このことを示しているのが、「大宮領武蔵国足立郡高鼻村之内百石 上落合村之内弐百石 都合参百石事 任去慶長九年三月十五日先判之旨~」とある下の元和3年(1617)5月14日付けの徳川秀忠の朱印状です。
これは、慶長9年の家康の先例に従って、元和3年に再度秀忠が認めたということを表しています。

徳川秀忠朱印状
(元和3年徳川秀忠朱印状、個人蔵)

ところで、この朱印状には、異状な点が二点あります。
一点は朱印状とはいいながら、日付下にあった朱印が墨塗りされていること、そして、二点目が本紙の上下の中央部分に左右に切った跡が見られることです。
この二点は江戸時代当初からのものではなく、明治維新の際に人為的に施されたものです。
明治維新後、新政府は全国の寺社に対して朱印状の回収を命じます。この朱印状も回収されたものですが、何らかの理由で回収後に切断されたり、朱印の部分が墨で塗りつぶされたものと考えられます(切断箇所は後に裏打ち修理が加えられています)。

さて、その後の見沼溜井の造成による大宮(高鼻村)の一部水没によって、大宮氷川神社には神領として新開村・四ッ谷村などに代替地が与えられ、さらに上落合村・新開村の一部が水路敷になってしまったために、下小村田村に替地が与えられました。
その結果、明治時代初期の大宮氷川神社の社領は、高鼻村に51石余、上落合村に192石余、新開村に33石余、四ッ谷村に1石余、下小村田村に21石余あったことになります。
このうち、上落合村について見れば、当初上落合村の200石は100石が神社社殿の修復用に充てられ、残りの100石は社家と社僧、氷川神社の本地仏である正観音に関する経費に配分されていましたが、後に修復用109石余、本地堂灯明料38石余、社家分24石、社僧分28石余となりました。
上落合村の負担は、氷川神社全体の修理料125石のうちの109石、本地堂灯明料40石のうちの38石余で、修理料と本地堂灯明料のほぼ全面的な負担に加え、社人・社僧の配当も負担するという、きわめて大きな経済的基盤を担っていたことになります。

ここで、江戸時代後半の上落合村の様子を描いた絵図を見てみましょう。
絵図が描かれている範囲は、現在のほぼ埼京線北与野駅周辺になります。

上落合村絵図
(天保7年上落合村絵図、個人蔵)

これは「武州一ノ宮御神領 同州足立郡上落合村」の村役人が描いたもので、東(絵図下側)の大宮宿との境附近には「用水」が流れ、西(絵図上側)の与野との境には悪水が流れていて、そこには「榎橋」と呼ばれる石橋が掛かっていたことが分かります。
この「榎橋」とは赤山道が鴻沼川を渡る場所に掛けられていた橋で、この橋のことは「与野郷土資料館展示web解説(その2)」で触れています(下記の「関連リンク」からご覧になれます)。
絵図の色分けや注記から判断すれば、上落合村の西側は田が中心で、村中央部に畑や山林があり、東側には民家や現存する神明宮、寺堂が存在していたことが分かります。
このような上落合村からの年貢が大宮氷川神社の大きな経済的基盤を担っていたことになるのです。
ちなみに、上落合村の人口は幕末には111人でした(嘉永5年宗門人別改帳)。

与野郷土資料館ではこの「元和3年徳川秀忠朱印状」(レプリカ)を展示しているほか、『与野郷土資料館開館記念図録』には「天保7年上落合村絵図」の写真も掲載しています。


その10 記憶の中の風景3.「六日町山の家の記憶」


その12 正平7年高麗経澄軍忠状と羽根倉合戦

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