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更新日付:2023年1月5日 / ページ番号:C010797

鴻沼資料館(こうぬましりょうかん)って何?/小中学生向け

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鴻沼資料館外観鴻沼は、昔(むかし)から台風(たいふう)や洪水(こうずい)などの被害(ひがい)が多(おお)い地域(ちいき)で、米作(こめづく)りでも大打撃(だいだげき)をうけていました。そこで地域の人(ひと)びとが集(あつ)まり、水害(すいがい)を防(ふせ)ぐために様々(さまざま)な努力(どりょく)をし、乗(の)り越(こ)えてきました。
鴻沼資料館は、この地域の歴史(れきし)を次(つぎ)の世代(せだい)へ伝(つた)えるために、地域の人びとから贈(おく)られた、農具(のうぐ)や生活道具(せいかつどうぐ)などを展示(てんじ)している資料館です。
平成(へいせい)4年(1992)5月1日に開館(かいかん)しました。その後(ご)、一時(いちじ)お休みしていましたが、さいたま市(当時(とうじ)の浦和市(うらわし))へ資料館全体(ぜんたい)が贈られ、平成7年(1995)7月1日から市の施設(しせつ)として、再(ふたた)び開館しました。

鴻沼ってなあに?

鴻沼と周辺の村々(開発される前)現在(げんざい)では「高沼(こうぬま)」と書(か)かれているものが多(おお)いのですが、もともとは「鴻沼」と書きました。「鴻沼」は、江戸時代(えどじだい)に現在の中央区下落合(ちゅうおうくしもおちあい)から南区鹿手袋(みなみくしかてぶくろ)にかけてあった南北(なんぼく)に細長(ほそなが)い沼で、周辺(しゅうへん)の17の村(むら)の農業用(のうぎょうよう)の溜井(ためい)(水(みず)をためておく場所(ばしょ))として利用(りよう)されていました。
右図:鴻沼と周辺の村々(開発される前)クリックすると拡大します。

鴻沼の開発(かいはつ)

鴻沼と周辺の村々(開発された後)江戸時代中頃(なかごろ)に井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)が、沼の中央(ちゅうおう)に排水路(はいすいろ)を通(とお)し、現在の大宮区北袋(おおみやくきたぶくろ)の見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)から水を引(ひ)き入(い)れました。この「鴻沼用水」は、今までの鴻沼の水に代(か)わる用水として、近(ちか)くの水田(すいでん)で利用されました。
右図:鴻沼と周辺の村々(開発された後)クリックすると拡大します。

水害を減(へ)らすために…

この辺(あた)りは低湿地(ていしっち)だったため台風などで洪水がおこり、たびたび被害を受(う)けてきました。そこで、昭和(しょうわ)31年(1956)、この地域の人びとが集まって、鴻沼排水関係(かんけい)二ヶ(にか)土地(とち)改良区(かいりょうく)連合(れんごう)を作(つく)り、排水路の改修(かいしゅう)や、下流部(かりゅうぶ)の田島地内(たじまちない)に鴻沼排水機場(きじょう)の設置(せっち)をして、水害を減らすために活動(かつどう)しました。

鴻沼周辺の伝説(でんせつ)

長伝寺(ちょうでんじ)の水飲(みずの)み龍(りゅう)

中央区本町東(ほんまちひがし)の長伝寺の欄間(らんま)の龍は、鴻沼の水を飲んで洪水を防いだという伝説が残(のこ)っています。

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