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更新日付:2023年8月16日 / ページ番号:C098135

ミニ展示「岩槻城惣絵図」(令和5年6月~8月)

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ミニ展示「岩槻城惣絵図(いわつきじょうそうえず)」

開催期間:令和5年6月28日(水曜日)から8月13日(日曜日)まで
会場:さいたま市立博物館 地下1階ミニ展示コーナー

江戸時代の岩槻城を描いた地図や絵図は、数多くの作品が遺されています。この「岩槻城惣絵図」は、かつて岩槻藩の領地があった旧上総国夷隅(いすみ)郡(現千葉県大多喜(おおたき)町)の旧家に伝来したもので、昨年度、所有者の方から当館に御寄贈を頂きました。
絵図に描かれている内容や表現手法は、さいたま市指定文化財となっている「岩槻城幷侍屋敷城下町迄総絵図(いわつきじょうならびにさむらいやしきじょうかまちまでそうえず)」(当館蔵、複製を常設展示中)とよく似ています。同時期(江戸時代後期、18世紀中頃)に作成されたか、または参考として作成されたものとみられます。
この絵図がどのように使われていたのかは定かではありませんが、当時の岩槻城の姿や、岩槻城と遠方の藩領とのつながりを表す資料として、貴重な存在であることから、今回展示しました。

展示資料

岩槻城惣絵図
  • 「岩槻城惣絵図」…江戸時代後期(18世紀中ごろ)以降
  • 瓦版「海陸御固泰平鑑(かいりくおかためたいへいかがみ)」…江戸時代末期(19世紀中ごろ)
岩槻城惣絵図凡例

房総地方の岩槻藩領

房総の岩槻藩領図宝暦6年(1756)に岩槻藩主となり、廃藩置県まで岩槻を治めた大岡家は、その直前の宝暦元年(1751)、上総国勝浦藩(1万石)の大名となっていました。幕府から岩槻城を与えられ2万石の大名となってからも、房総の各地に約8千石の領地を持っており、勝浦に陣屋を置いて支配を行っていました。今の大多喜町南部には「奥山御林」と呼ばれる山林があり、番所が置かれていました。

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