第47回特別展「さいたまの埴輪」展示資料紹介(2)
第47回特別展「さいたまの埴輪」 では、市内の古墳や古墳跡から発見された各種の埴輪や関連する資料を、約170点展示しました。このページでは、実際の展示構成に沿って、第2章の主な資料を紹介します。
第2章 埴輪を知る
第2章では、埴輪や古墳の基礎知識について紹介しました。
「埴輪」とはどんなもの?
古墳に置かれた素焼きの焼き物で、壺などの実用品ではないものを「埴輪」と呼びます。円筒形のもの、人物形のものなど、いろいろな形があります。
稲荷塚古墳(大宮区三橋4丁目)(左)と出土した円筒埴輪(右)
「埴輪」はいつごろのもの?
現在「埴輪」と呼ばれているもので、最も古いものは3世紀後半(西暦250~300年頃)に作られたもの、最も新しいものは6世紀末(600年頃)に作られたものがあります。さいたま市域では、5世紀後半から6世紀末(450~600年頃)の埴輪が発見されています。
「埴輪」にはどんな種類がある?
最初に作られたのは円筒形の埴輪です。元々はお墓にお供え物をするための台と器だったものが、古墳の飾りや魔除けとして、目立つように大きく、多く並べるようになったものと考えられています。その後、家や人物、馬などの形をした埴輪も作られるようになりました。
いつから「埴輪」と呼ばれた?
埴輪が作られていた頃に、どのような名前で呼ばれていたのかはわかっていません。「埴輪」という言葉が初めて登場したのは、奈良時代の養老4年(720年、8世紀)に成立したとされる『日本書紀』の中です。形象埴輪の始まりについて書かれたもので、その内容は実際の埴輪の出土状況とは異なっていますが、この頃には埴輪と呼ばれていたことがわかります。
『日本書紀』巻6 垂仁天皇32年秋7月
国立公文書館デジタルアーカイブより
「埴輪」が発見された古墳はどこ?
さいたま市域では、今も残っている古墳や、古墳と考えられている場所、発掘調査で跡が見つかった古墳などを合わせて、約120基の古墳があったことがわかっています。現在、これらのうち、約20基の古墳で、埴輪が発見されています。
埴輪の作りかた
埴輪や、埴輪を作った窯(かま)の跡の調査が進むとともに、埴輪をどうやって作っていたのかについてもわかるようになってきました。
材料
埴輪の材料は、土器などと同じ粘土です。関東平野の台地では、地表面から数m下に粘土の地層があることがあり、台地の端の崖に露出したところから粘土を取ったり、地表から地面を掘り下げて採掘したりしていたようです。粘土は、そのままではなく、砂などを混ぜ、ねばり具合などを調整して使われたようです。
成形
埴輪の形は、土器と同じように細長く伸ばした粘土を下から何段も積み重ねて作られています。継ぎ目には、上段と下段がしっかりつながるように、ギザギザを付けた跡などが残っていることもあります。また、底面には葉脈の跡などが残っていることがあります。木の葉などを敷いて作業をしていたようです。
仕上げ
埴輪の表面は、木の板でこすって平らに仕上げられています。このとき、板の端の木目が、埴輪の表面に縞(しま)模様となって残るのですが、この方向が時期によって異なります。さいたま市域で出土する埴輪では、古い時期(5世紀頃)の埴輪は、横方向に板を動かして仕上げたもの、その後の時期の埴輪は縦方向に板を動かして仕上げたものになっています。
表面を仕上げたら、凸帯(とったい)を貼り付け、透かし穴を開けると、円筒埴輪の形が完成です。人物埴輪や馬形埴輪などの形象埴輪も、この円筒埴輪を元にしてつくられています。
窯印(かまじるし)
一部の埴輪には、木のヘラなどで付けられたようなマークが見られることがあります。埴輪を作る際に、誰が作ったのか、どこの古墳に持っていくものか、などを示すために付けたのではないかと言われています。
左写真:「×」印(本杢南古墳出土)/右写真:「××」印(稲荷塚古墳出土)
焼成
形ができた埴輪は、乾燥させたあと、焼いて仕上げます。さいたま市域で見つかる埴輪は、炎を受けた跡がみられないことから、地下式または半地下式の窯で焼かれたものとみられます。
輸送・設置
埴輪は、作られた窯から、陸路や川舟などで、古墳まで運ばれたと考えられています。古墳に到着した埴輪は、下部を地中に少し埋めて設置されたようです。特に円筒埴輪は、上端の高さが揃うように並べて置かれたと考えられています。
参考文献
続きはこちら
>第3章 埴輪いろいろ
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