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更新日付:2023年6月27日 / ページ番号:C097472

市立博物館収蔵品展「近代人の休日 -余暇と娯楽の明治・大正・昭和-」 展示Web解説(その1)

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市立博物館収蔵品展「近代人の休日 -余暇と娯楽の明治・大正・昭和-」 展示Web解説(その1)

展示室写真令和5年3月4日から6月11日まで開催した収蔵品展「近代人の休日 -余暇と娯楽の明治・大正・昭和-」の展示内容の一部をご紹介します。この展示では、様々な「余暇」と「娯楽」のうち、近代の「音楽」「演劇・映画」「行楽・旅行」「スポーツ・イベント」の4つのテーマについて、当館の収蔵資料をもとに、人々が余暇をどのように過ごしてきたのかを紹介しました。





 

序章 余暇はどのように生まれたか

江戸時代から明治時代になっても、人々の暮らしが急に変化したわけではありませんでしたが、役所や警察、郵便、学校などの運営には、明治6年(1873)から西洋の暦法が使われるようになりました。国の機関では、明治9年(1876)から、土曜日の午後と日曜日を休日としました。これによって、人々の暮らしにも次第に「曜日」が取り入れられるようになりました。

明治6年の太陽暦の暦
展示資料:明治6年(1873)の太陽暦による暦 明治5年(1872)
太陰太陽暦(旧暦)から、現在も使われている太陽暦(新暦)への切り替えは、旧暦の明治5年12月2日の翌日を、新暦の明治6年1月1日とする方法で行われました。
切り替えの周知は前月(旧暦11月9日)に行われたため、明治6年の暦は、旧暦のものと新暦のものの両方が発行されています。

汐留横浜間鉄道往返の図
展示資料:錦絵「従汐留横浜迄蒸気車鉄道往返之図」 明治10年(1877)
明治5年(1872)に開業した鉄道の運行には、年末の改暦に先立って新しい時制が使われました。

公共機関や、鉄道、鉱山、工場などの新しい産業では、雇用契約にもとづいて働き、給与を受けるという形の働き方をする人が現れました。受け取った給与は、生活費のほかに、余裕があれば娯楽のために使うこともできます。こうした人々の需要によって、近代の娯楽産業も発展をはじめました。また、大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦は、我が国においては、輸入の停滞による国内生産の拡大と輸出の活況によって、好景気をもたらしました。人手不足から働く人の賃金も上がり、生活に余裕が出てきたことと、蓄音機や映画の発明など世界的な技術の発達によって、音楽、映画鑑賞などの娯楽文化が花開きました。
しかし、第一次世界大戦終結後の世界恐慌による不況や、その後の第二次世界大戦の長期化や戦線拡大に伴う労働力や物資の不足によって、人々の余暇の時間は限られるようになります。戦争終結後も苦しい生活を強いられる人が多く、暮らしに余裕を持てるようになってきたのは昭和30年ごろからでした。この後、昭和48年(1973)に起きた石油危機(オイルショック)まで我が国は経済成長を続け、余暇も増えていきました。これに伴って観光や興行、出版などの娯楽産業も成長し、様々なサービスが提供されるようになりました。

第1章 音楽

長唄などの稽古本 長唄稽古本「勧進帳」
展示資料:長唄などの稽古本 明治時代

長唄(ながうた)、端唄(はうた)、常磐津(ときわづ)、都独逸(とどいつ)など、江戸時代から続く「歌いもの」や「語りもの」は、明治時代になっても親しまれ、教養や一芸として稽古をする人も多かったようです。いずれも伴奏には三味線が使われます。 また、 明治5年(1872)の学生発布によって、小学校では「唱歌」の科目が設けられました。明治40年(1907)には必修科目になり、多くの児童や生徒が学校で合唱や演奏を体験するようになりました。伴奏用の楽器としては、オルガンが全国に普及しました。

明治時代の足踏み式オルガン
展示資料:足踏みオルガン(リード・オルガン) 明治時代

大正時代ごろからは、レコードや放送の普及に伴って、歌唱を職業とする人も増え、才能のある人が人気を集めて商業的にも成功するようになります。また、飲食店では余興として歌うことが好まれることがあり、「歌声喫茶」など歌唱を前面に出したサービスも生まれました。伴奏を再生して歌声を乗せる「カラオケ」は、昭和40年代に店舗用の機器が開発され、カセットテープの普及とともに家庭へも広まりました。

カラオケ用品
展示資料:カラオケ用品 昭和50年代

音を録音・再生する機械は、明治10年(1877年)にアメリカで発明されました。最初につくられたのは、円筒形のレコードに記録するものでしたが、明治20年(1887)に円盤形のレコードが開発され、同じものを大量に作ることができるようになると、明治35年(1902)ごろから世界的に急速に広まり、音楽は生活の中に溶け込んでいきました。また、音楽はしばしば世論の誘導にも使われ、第二次世界大戦中には国策を反映した楽曲も多く作られました。

蓄音機
展示資料:蓄音機 昭和20年代
再生に電気を使わないレコードプレイヤーは一般的に「蓄音機」と呼ばれています。
針の振動を、本体の箱に反響させて大きな音を出せるようになっています。

大正14年(1925)にはラジオの放送が始まりました。音楽も放送されるようになり、特に聴こうとしなくても音楽が聞こえてくる環境がより増えました。1970年代になると、音質の良いFM放送の普及やラジオ受信機の小型化によって、音楽番組の人気が高まりました。

ラジオ受信機
展示資料:ラジオ受信機(春日無線工業 AF-10) 昭和35年(1960)
AM、FM、短波の3種類の波長の放送を受信できるラジオです。

受話器置きオルゴール
展示資料:受話器置き(オルゴール付き) 昭和40年代
かかってきた電話を取り次ぐ際、待っている間に音楽を聴いてもらうための道具です。
メモ帳や電話番号帳と一体となっているものなど、色々な種類がありました。

第2章 演劇・映画

江戸時代には、江戸や大坂などの大きな都市には芝居小屋が建てられ、地方への巡業も行われていました。常設の芝居小屋は近代以降に劇場へと発展し、巡業による興行は、見世物などとともに大規模イベントやサーカスなどの原型となっていきました。

竹本小土佐関係資料 竹本小土佐興行ちらし
展示資料:竹本小土佐関係資料
竹本小土佐(本名は本田つま、明治5年(1872)~昭和52年(1977))は、名古屋出身の義太夫(ぎだゆう)(浄瑠璃(じょうるり)の中の一派)の太夫(歌い手)です。15歳で真打となり、名古屋や東京を拠点に各地で興行を行い、美声と容貌で大人気となりました。晩年は大宮市(現在の見沼区)で過ごしました。

写真の技術を元に19世紀末に発明された映画は、当初から大きな人気を集め、急速に世界的に広まりました。我が国でも、明治30年(1897年)の初上映(スクリーンへの映写)から数年で、全国各地の劇場や寄席で巡回興業が行われるようになりました。また、東京、大阪などの大都市には映画専門の劇場がつくられるようになり、大正時代には全国に普及しました。なお、「映画」という言葉が普及するのは昭和時代以降のことで、それまでは「活動写真」と呼ばれていました。

開館当時の埼玉会館 埼玉会館文芸映画ちらし
展示資料:開館当時の埼玉会館とちらし「文芸映画の夕」 昭和初期
大正15年(1926)に完成した埼玉会館は、当時としては最先端の設備を備えた公共集会施設でした。
映画の上映もたびたび行われていました。

五月信子出演作ちらし 五月信子一座ちらし
展示資料:浦和劇場の五月信子出演作品ちらし 大正時代
五月信子(本名は御手洗忍、明治27年(1894)~昭和34年(1959))は浦和出身の俳優です。
大正4年(1915)にデビューし、舞台や映画で活躍しました。浦和劇場での公演では「当地出身 劇壇の女王」と宣伝されています。

>展示WEB解説その2へ続く

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