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更新日付:2024年4月19日 / ページ番号:C096829

さいたま市立博物館展示web解説(縄文時代その3)

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さいたま市立博物館展示web解説(縄文時代その3)─縄文海進・海がそこまで来ていたはなし─

縄文時代早期にあたる約7千年前、いわゆる「縄文海進(じょうもんかいしん)」という現象が日本列島に起きていました。
この頃の海水面は、現在に比べて2~3メートル高く、日本列島の各地で海水が陸地の奥深くへと浸入し、複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。
下図は当時の関東周辺の海岸線を大まかに表したもので、今のさいたま市内にも奥東京湾の一部が入り込んできています。

縄文海進時の関東周辺の海岸線

縄文海進時の関東周辺の海岸線(大まかに表したもの)

このような海水面の大きな上昇と下降は、過去に何度もあったことが分かっています。
その主な原因は、北極や南極にある氷床の融解や拡大によって海水の体積が増減することにあります。
そのため縄文海進も、「約7千年前に地球が温暖になって氷床が解けたので海水面が上昇し、その後寒冷化して再び氷床が拡大したから海水面が現在の高さになったのだろう」と考えたくなるのですが、実は少し違います。

以下の話は、日本第四紀学会のこちらのページで解説されている内容を、図を交えながら紹介しています。

最新の氷期を最終氷期といいますが、その開始年代は、約11万6千年前~3万年前と、研究者により異なります。
終わりは約1万9千年前~1万年前の間です。
約2万8千~1万9千年前に氷床量は最大となり、海水面は現在よりも120~130メートル低く、北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸北部に厚さ数千メートルもの巨大な氷床があったことが分かっています。
それが約7千年前までに、急激に融けてほとんどなくなってしまいました。
これにより、日本を含めた氷床から離れた地域では、約7千年前には、最も寒冷だった約1万9千年前に比べて海水面が100メートル以上(1年あたり1~2センチメートル)も上昇しています。
これが「縄文海進」という現象です。

ちなみに、この頃の日本列島は今より2~3度ほど温度が高く、比較的温暖な時期を迎えていましたが、これは黒潮の流れが現在とは異なっていたからだということがわかっています。
「縄文海進」の海水面の上昇と、日本列島が温暖な時期を迎えていたのが同時期だったのは、偶然だったとも必然だったとも言われています。

縄文海進
縄文海進が起こる仕組み

ところがその後、氷床の再拡大に至るほどの地球規模の寒冷化は起きていません。
ではなぜ、気温が変化していないにも関わらず、海水面が下がって今の海岸線になったのでしょう。
それは海水の量が増えたことに原因があります。
海水の量が増えることにより、海洋プレートが重さでゆっくりと沈降していきました。
海洋プレートの下にあったマントルが押され、大陸プレートの下へと移動し、氷床から離れた地域の陸地が隆起しました。
結果、氷床から離れた地域では、見かけの海水面が下がり、現在の海岸線になった、というわけです。

縄文海進後

見かけの海水面が下がる仕組み

もしこの、約10,000年前~約7,000年前の氷床の融解がこれほど急激な現象でなければ、海水面の上昇する速度と陸地の隆起する速度が打ち消し合ってしまうため、縄文海進は起こらなかったでしょう。
「海水の量が増加した速度」が「氷床から離れた地域の地殻が隆起する速度」より圧倒的に速かったから起きたのが縄文海進、というわけです。

さいたま市内では多くの貝塚が見つかっていますが、 縄文海進の影響で、川で獲れる貝に混じって海で獲れる貝が出土しています。
さいたま市立博物館では、それらの貝塚から発掘された貝殻や、一緒に見つかった石器などを展示しています。
ぜひ、お越しください。

<参考サイト> 日本第四紀学会(新しいウィンドウで開きます)


縄文時代その3 -縄文時代の耳飾のはなし-


縄文時代その4 -縄文時代の食べ物のはなし- ※準備中

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