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更新日付:2024年3月20日 / ページ番号:C113258

さいたま市立博物館展示web解説(中世その1)

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さいたま市立博物館展示web解説(中世その1)ー寿能城のはなし―

寿能城の位置と空中写真大宮区にあった戦国時代の城「寿能城」(じゅのうじょう)を御存知でしょうか。位置は現在の大宮区寿能町付近、大宮北中学校の東側にあたり、見沼や谷で北・東・南の三方向を囲まれた高台になっている場所です。現在では産業道路が南北に通過し、県営住宅など住宅が建ち並んでいます。

右図:寿能城のおおまかな位置と1960年代の空中写真
(地理院タイル https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html を使用して作成)

寿能城の築城まで

寿能城の城主は潮田出羽守資忠(うしおだでわのかみすけただ)(以下「潮田資忠」または「資忠」と表記)という武士です。資忠は、当時の岩付(いわつき)城主だった太田資正(おおたすけまさ)の三男(一説には四男とも)で、姓の「潮田」は母方のものです。この潮田氏は相模国の出身といわれ、鎌倉時代には鎌倉幕府の御家人として活躍しています。その後潮田氏は各地に移住し、資忠の先祖は室町時代に足立郡内(大宮から桶川あたり)の在地領主として活躍した潮田氏(牛小田氏)であったと考えられています。

寿能城ができる前、16世紀前半の武蔵国北部(現在の埼玉県一帯)は、小田原を拠点に関東北部への進出をはかる後北条氏と、これに抵抗し分国支配を守ろうとする岩付の太田氏、後北条氏と敵対する北関東の山内上杉氏・扇谷上杉氏の攻防の戦場となっていました。後北条氏は扇谷上杉氏の拠点だった河越城を天文6年(1537)年(年月日は旧暦による。以下同様)ごろ攻め落とし、また岩付太田氏の太田左京亮全鑑(おおたさきょうのすけぜんかん)を扇谷上杉氏側から離反させて味方に付けました。このとき、全鑑の弟の太田資正は離反せず、扇谷上杉氏の家臣のままでした。
その後、両上杉氏は連合して河越城の奪還を図り、これを包囲しましたが、後北条氏はこの軍勢を天文15年(1546)に撃退、扇谷上杉氏を滅亡させて支配を強固にしました。山内上杉氏当主の上杉憲政(うえすぎのりまさ)は上野国(現群馬県)に逃れましたが、後北条氏はこれを追うように勢力を拡大し、深谷城の上杉憲賢(うえすぎのりかた)、羽生城の広田直繁(ひろたなおしげ)などを降伏させ、永禄元年(1558)頃までには上野国を平定。上杉憲政は越後国(現新潟県)に逃れました。河越城の北に位置する松山城(現吉見町)もこのとき後北条方が占領しましたが、天文15年(1546)の9月頃に太田資正が奪還し、居城としました。
岩付城では、太田左京亮全鑑が天文16年(1547)ごろに亡くなり、弟の太田資正が松山城から戻って跡を継ぐことになりました。当初は反後北条氏の立場だった資正ですが、後北条氏の勢力拡大とともに、次第に後北条氏に協力する立場を取るようになっていきます。資正に代わって松山城に入った上田朝直(うえだともなお)も、この時期に後北条氏側についています。
しかし永禄3年(1560)に転機が訪れます。越後に逃れた上杉憲政が、越後を統一していた武将である長尾景虎(ながおかげとら)とともに後北条氏討伐、関東奪還に乗り出したのです。征服され後北条側についていた旧上杉氏家臣の中にも再び上杉側に従うものも多く、資正もこれに呼応して後北条氏から離反。永禄3年から4年にかけて、後北条氏は劣勢に立たされます。松山城も上田朝直から資正が奪還し、再び城主となりました。

太田資正判物左写真:「太田資正判物」(おおたすけまさはんもつ)永禄3年(1560) 個人蔵・市立博物館寄託

左の文書は、資正が潮田資忠に「大宮浦和之宿木崎領家方迄」の所領を安堵(あんど)した際のものです。この判物の発給年の永禄3年(1560) が寿能城築造の時期と推定されています。寿能城は、上のような情勢の中で、上杉氏とともに後北条方と戦う岩付太田氏の拠点の一つとして築かれたようです。永禄3年(1560)頃の武蔵

右図:永禄3年(1560)頃の戦況
(第13回特別展「寿能城と戦国時代の大宮 」図録より)

太田資正の追放

寿能城築城の翌年、永禄4年(1561)には、上杉憲政・長尾景虎勢は小田原城を包囲するに至ります。しかし、長尾景虎は越中国(現富山県)などでの戦いにも対応せざるを得ず、後北条氏討伐に専念できない状況でした。さらに、以前から長尾景虎に敵対していた甲斐国(現山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が後北条氏に協力して反攻し、形勢は次第に逆転していきました。岩付領内にも後北条方の軍勢がたびたび侵攻し、永禄6年(1563)には、松山城が再び後北条氏の軍勢に攻略されてしまいます。
こうした中で、太田資正の子で、潮田資忠の兄である太田氏資(おおたうじすけ)は、永禄7年(1564)、父である資正を岩付城から追放して城主となり、後北条氏に従う決断をしました。氏資は、岩付太田氏が後北条氏と協力体制にあった時期に、後北条氏当主の北条氏康(ほうじょううじやす)の娘である長称院と結婚していました。太田家の家臣の中には、同じ時期に後北条氏から派遣されてきた者もおり、こうした者たちと協力して資正の追放を行ったのではないかと考えられます。寿能城の潮田資忠も兄に従い、これ以降は後北条氏側として、上杉などの軍勢と戦うようになりました。同じ氏資の弟の梶原政景(かじわらまさかげ)は、氏資によって幽閉されましたが、後に脱出して資正の元に向かいました。
追放された資正は忍城(現・行田市)に逃れた後に、梶原政景とともに常陸国(現・茨城県)の佐竹義重(さたけよししげ)に客将として迎えられ、常陸国片野城(現・茨城県石岡市)に入りました。その後は当地で生まれた嫡子(太田資武(おおたすけたけ))を後継者とするとともに、後北条氏に敵対する長尾景虎改め上杉謙信(うえすぎけんしん)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)とも通じて、後北条氏との戦いを続けました。

寿能城の家臣寿能城主と家臣たち

寿能城には、城主である資忠の元に、3名の家老、2名の用役がおり、その下で多くの給人衆が働いていたとみられます。また、資忠には、資政(すけまさ)、資勝(すけかつ)の2人の子がいました。

右図:寿能城の支配構造(第13回特別展「寿能城と戦国時代の大宮 」図録より)

城主・家老・用役については「三楽斎資正伝」によった。
給人衆については、天正20年(1592)の「御検地帳大宮之村」(小島民雄家文書)からの推定である。
同検地帳には農地を苗字請けしているもの10人の記載がみられ、彼らは寿能城の給人衆であったものと推定される。

岩付城の太田氏資が後北条氏側に付いてからは、岩付城は後北条氏の関東東部攻略の拠点となり、上総国(現・千葉県中央部)の里見氏などと対立しました。氏資はこの戦いの中、永禄10年(1567)に討死します。氏資の子供は娘(小少将)が一人だけだったため、後北条氏は太田家の家臣や、一族の北条氏繁(ほうじょううじしげ)などを城代として派遣し、岩付城とその属領を直接支配するようになりました。その後、北条氏康の孫、氏資の義理の甥にあたる国増丸(くにますまる)が小少将と結婚して太田の姓を継ぎ、天正9年(1581)に岩付城主となりましたが、翌年亡くなり、その後は国増丸の弟の北条氏房(ほうじょううじふさ)が城主となりました。

豊臣秀吉の小田原攻め

後北条氏は天正12年(1584)頃までに上野国を平定し、常陸国の佐竹氏、上総国の里見氏を除く関東の大部分を勢力下に置きましたが、このころ豊臣秀吉が西日本一帯を平定し、関東への進出を図るようになってきました。後北条氏は小田原城や岩付城に土塁を築くなど守りを固め、戦いに備えました。豊臣秀吉は天正17年(1589)に後北条氏を討伐する宣戦を布告し、翌年春に大軍を率いて関東へ出発しました。加賀国の前田利家、越後国の上杉景勝など、豊臣秀吉方についた大名も関東への侵攻をはじめました。
これに対して後北条氏方は小田原城への籠城で対抗することを決め、各地の支城にいた一族や家臣を小田原へ呼び寄せました。寿能城主の潮田資忠と子の潮田資勝も、岩付城主の北条氏房に従って小田原城に赴きました。岩付城には家臣らが、寿能城には潮田資政らが残り、守りを固めました。豊臣秀吉の軍勢は天正18年(1590)4月には小田原城を包囲しましたが、籠城する後北条氏を攻めきれずに長期戦となります。この戦いの中で、資忠と資勝は4月18日に戦死しました。 豊臣秀吉は、他の後北条氏方の支城を先に攻めることとし、北からは前田利家などの軍勢、南からは徳川家康などの軍勢を進めました。これによって、4月から5月にかけて江戸城や松山城、河越城が陥落しました。岩付城も包囲され、激戦の末に5月22日までに落城しました。
寿能城での戦いの様子の記録はこれまで見つかっていませんが、岩付城とほぼ同時に攻撃され、落城したものと考えられています。寿能城に残っていた資政はまだ幼少で、このときに家臣の北沢宮内(きたざわくない)、加藤大学(かとうだいがく)に助けられ、脱出することができました。その後資政が頼ったのは、父の異母兄弟、つまり叔父にあたる太田資武(おおたすけたけ)です。資武は、資正が岩槻城から追放され、常陸国の佐竹氏の客将となってから生まれた岩槻太田家の後継者で、当時は太田資正、梶原政景とともに秀吉に協力し小田原城攻めにも加わっていました。資政は寿能城から常陸国へと逃げ延び、資武に養育されるようになりました。
諸城を失った後北条氏は、協議の末に豊臣秀吉への降伏を決め、7月5日に小田原城を明け渡しました。岩付城主の北条氏房は、降伏の和議を進めるにあたって功績があったとして助命され、豊臣秀吉に従いました。
 

その後の寿能城

潮田家の墓碑後北条氏滅亡後の関東は、豊臣秀吉の家臣である徳川家康が治めることになり、徳川家康は8月1日に江戸城に入りました。徳川家康は後北条氏の旧臣を配下に迎え、各地の復興を進めました。
寿能城の潮田家に仕えていた家臣の多くは、武士の身分を捨てて帰農することが認められ、大宮やその周辺に居を構えました。寿能城があった場所は北沢宮内に与えられ、農地として開墾されました。また北沢宮内は城内の物見塚跡に資忠・資勝の霊を祀るための小社を設けましたが、慰霊を公然と行うことははばかられたため稲荷社としました。北沢家は後に大宮宿の名主を務めることになり、大宮宿の移転の際にはこの稲荷社も北沢家の屋敷神として新しい屋敷内へ移され、明治以降も同地にありました。昭和40年代に屋敷跡が再開発された際には一時期漫画会館(北沢家末裔の北沢楽天の旧居)へ移動しましたが、現在は北沢家跡に建てられた百貨店の屋上に鎮座しています。
太田資武の元に逃げ延びた潮田資政は、徳川家康に召し出されて土井利勝(どいとしかつ)の家臣となりました。土井利勝はその後下総国小見川城主となり、江戸幕府の老中に就任。さらに加増によって下総国古河城主となりました。資政もこれに従い、その後代々土井家に仕えています。太田資正が保管していた岩付太田氏一族に係る古文書の一部も、潮田家に譲られ、現在まで伝えらえています。
資政から5代目の子孫である潮田資方(うしおだすけかた)は、元文3年(1738)、大宮宿の北沢甚之丞を訪れ、資忠の墓碑を寿能城の物見塚跡に建てました(右写真)。この墓碑を含む物見塚跡一帯は、現在は県指定文化財(旧跡)「寿能城跡」に指定されています。>文化財紹介 寿能城跡
 

参考文献

大宮市(1971)『大宮市史 第二巻』大宮市役所.
大宮市立博物館(1990)『寿能城と戦国時代の大宮』大宮市立博物館(展示図録).
岩槻市教育委員会(2005)『岩槻城と城下町』岩槻市教育委員会.


>中世その2(編集中)

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