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更新日付:2022年6月30日 / ページ番号:C078002

岩槻城跡を探る

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更新情報

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令和4年6月30日

『第9調査室  城の外 さいたま市域と岩槻城』の「調査レポート」に
「太田窪と岩槻城 後編の上」をアップしました

令和4年3月29日

 『第8調査室  大構(おおがまえ)と城下町』の「調査レポート」に
「慶長六年霜月一日『高力清長市掟』を読む」をアップしました

令和4年3月23日

『第9調査室  城の外 さいたま市域と岩槻城』の「調査レポート」に
「太田窪と岩槻城 中編の下」をアップしました

令和4年2月23日

『関連情報』に「江戸時代の絵図から見る見沼通船堀」へのリンクをもうけました

 岩槻城跡を探る  いわつきじょうあとをさぐる

ooteguchinohori室町時代末期・戦国時代初頭に築城され、明治時代初期に廃城となった岩槻城。
およそ400年にわたる存続期間に、岩槻城は大きく移り変わりました。激しい
戦乱の中で築かれた当時の軍事的機能、大きな勢力配置が固まった中で、領主
(国衆・くにしゅう)の本拠や関東統治の要として加わった拠点城郭としての
性格、「泰平の世」における幕府の全国統治における幕閣の城としての性格・
・・。時代の推移とともに、岩槻城の性格や機能は変容しあるいは時代に即し
たものが加わっていきました。
こうした城としての「はたらき」の移り変わりとともに、岩槻城の「かたち」
も城としての性格や機能にふさわしい形へと、改造が幾繰り返されました。
☜岩槻城大手門外の堀

daikibonakasaitohori左の写真は、岩槻城本丸跡の発掘調査でみつかった、堀を埋めた土の層の写真
です。朱色のかたまりと漆黒のかたまりがたくさん混ざった土で埋められてい
ることがわかります。朱色のかたまりは、焼け落ちた建物の壁土、漆黒のかた
まりは、建物の柱などの木材・竹などが焼けて炭になったものです。岩槻城が
大規模な火災にみまわれ、そのあとの火事場片づけで堀を埋めたことがわかり
ます。この堀は、江戸時代の城絵図には描かれていません。江戸時代の岩槻城
が確立する直前の頃の火災とそれに伴う城の「かたち」の改造を物語っている
わけです。

古い時期ほど、岩槻城に関する信頼性の高い書付や記録が少なくなるため、城の様子が具体的にわかる史料、端的には城の様子
を描いた絵図(絵地図)などは、江戸時代以降のものしか残されていません。これに加えて、岩槻城の廃城後、城跡はさまざま
な用途へと、時代の要請に合わせて再開発が繰り返されてきました。こうして岩槻城の面影は次第に失われてきました。

戦国時代から江戸時代の関東の政治史では、欠かすことのできない重要城郭であった岩槻城。しかし、古い時期の様子には今な
お未解明な点が多く残されている岩槻城。しかも、江戸時代の城の面影さえも次第に失われつつある岩槻城。こうした現況を踏
まえて、岩槻城の様子を探る糸口を紹介してまいります。
体系的に順序だてた紹介の形はとらずに、テーマごとに設けた「調査室」のレポートが、さまざまな角度・切り口から課題へと
迫ります。
○調査室と調査テーマ
第1調査室:立地と概要
第2調査室:絵図
第3調査室:地形と地図
第4調査室:発掘調査
第5調査室:城の中心 主郭部(しゅかくぶ)
第6調査室:南の備え 新曲輪(しんぐるわ)
第7調査室:北の備え 新正寺曲輪(しんしょうじぐるわ)
第8調査室:大構(おおがまえ)と城下
第9調査室:城の外 さいたま市域と岩槻城

第1調査室  立地と概要

立地

saitamasinochikeitoiwatukijou岩槻城跡は、さいたま市の北東部、さいたま市岩槻区本丸三丁目とその周辺に
あります。最寄り駅は東武アーバンパークライン(東武野田線)岩槻駅です。
城跡の中心部は、大宮台地と呼ばれる台地(高台)上にあり、東側の元荒川が
流れる低地(中川低地)に面した台地の東縁に中心部が位置しています。

概要

kinseizenkinoiwatukijou江戸時代前期の岩槻城は、おおむね左の図のような形をしていました。狭い意
味での城郭は「主郭部」「新曲輪」「新正寺曲輪」の三つの部分に分かれてい
ました。
城の中心部は本丸などのあるところで、「主郭部(しゅかくぶ)」と総称して
います。ここは、西側の一部を除き、自然の沼がまわりを取り囲み、西側は巨
大な堀が城下町側との間をへだてていました。
主郭部から見て、沼の南側対岸には、新曲輪(しんぐるわ)と鍛冶曲輪(かじ
ぐるわ)という二つの曲輪がありました。「新曲輪部分」と総称することもあ
ります。
反対に北側対岸には、新正寺曲輪がありました。
これらの狭い意味での城郭の西側には、岩槻城主に仕える武士たちの屋敷(武
家屋敷)、城や武士のくらしを支え、周辺地域の物資入手の場でもある庶民の
居住区(町家・まちや)が拡がっていました。町家は、さらに街道に面した宿
場でもありました。武家屋敷と町屋とは門や木戸で区画されており、武家屋敷
がまとまる区域は「武家地(ぶけち)」ともいわれます。
武家地と町家には、主にその背後を中心に、たくさんの寺や神社がありました(「寺社地」)。こうした武家地・町屋・寺社地
は、広い意味での城下町です。
城下町の周囲は、巨大な土塁と堀が取り巻いていました。この土塁と堀を合わせて「大構(おおがまえ)」「大囲(おおがこい)」
などと呼んでいます(ここでは「大構」に統一して説明します)。この大構は、岩槻城の外側の防衛ラインです。したがって、
広い意味での岩槻城は、この大構の範囲までをさすわけです。

調査レポート

1.岩槻城築城伝説 ☞ 岩槻城築城伝説(PDF形式 3,732キロバイト) (2021.08.20)

 

第2調査室  絵 図 

城の研究を進める上で、重要なてがかりとなるのは、城の様子を当時の地図の作成方法で描いた絵地図、城絵図です。岩槻城
の城絵図は、全国各地に様々なものが残されています。大構の範囲まで含めた城郭全体を描いたもの、狭義の城郭部分のみを
描いたもの、個々の曲輪や部分を描いたものなどがあります。
さいたま市にも多くの城絵図が伝えられています。そのうちの「岩槻城幷侍屋敷城下町迄総絵図」(さいたま市立博物館所蔵)
は、さいたま市有形文化財(歴史資料)に指定されています。

基本情報

iwatukijousouezusitei
岩槻城幷侍屋敷城下町迄総絵図
文化財紹介 岩槻城幷侍屋敷城下町迄総絵図

調査レポート

1.「岩槻城並町図(いわつきじょうならびにまちず)」 ☞ 「岩槻城並町図」(PDF形式 3,575キロバイト) (2021.08.20)

第3調査室  地形と地図

不自然な形で続く窪地や高まり、細長い土地区画などは、城の土塁や堀の痕跡であることがままみられます。しかし、こうし
た痕跡さえも、現地からは失われている場合、今より前の地図にそうした情報が記し留められていないかどうかを探ることに
なります。地図には、その折々の精度によって、城の名残が地図情報として記されています。

基本情報

岩槻城跡詳細測量図 岩槻城跡旧状図

第4調査室  発掘調査

shoujiborinohakkutuchousa大地に刻み込まれた、過去の人々の様々な活動の痕跡を調査・研究する考古
学の方法で行う調査、それが発掘調査です。発掘調査では、大地を掘り窪め
た跡、反対に大地に土や石などを盛り上げた跡、そして当時の人々が使って
いた様々な道具などを調査します。
城の様子を直接把握できる方法として、最も基本となる調査といえます。そ
の反面、発掘調査には大きな限界もあります。それは、対象として調査され
るのは、残ったものに限られます。調査以前の土地利用によって失われてし
まったものは、もはや調査することはできません。また、岩槻城のように長
期間にわたって存続した城郭の場合、繰り返し行われる城の改造やさまざま
な掘り込みなどによって、それ以前の城郭の要素が破壊されている場合もままみられます。
岩槻城跡では、各種の方法の特性と限界を踏まえ、総合的に調査・研究が進められてきました。
※写真は、埼玉県指定史跡「岩槻城跡」(新曲輪・鍛冶曲輪間の堀)での発掘調査のようす(障子堀を調査していることころ)
です。

基本情報

遺跡としての岩槻城跡 さいたま市遺跡地図

調査レポート

1.岩槻城跡発掘調査事始め ☞ 岩槻城跡発掘調査事始め(PDF形式 2,147キロバイト) (2021.04.30)

第5調査室  城の中心 主郭部(しゅかくぶ)

shukakubu岩槻城跡の調査・研究では、本丸・二の丸・三の丸などの城の中心部を主郭部と呼んでいます。
城郭を構成している大きなブロックを「曲輪(くるわ)」といいますが、その曲輪の中で、中心
となる三つのものを重要度順に、本丸・二の丸・三の丸などと呼びました。「・・・丸」という
と、他の城では、西の丸(にしのまる)、真田丸(さなだまる)などを耳にしたことがあるでし
ょう。曲輪は周囲を土塁や堀で囲まれています。そうした区画が寄り集まって城が構成されてい
るわけです。江戸時代の岩槻城ではさまざまな曲輪が本丸などの主要な曲輪に附属して、重層的
な構成となっていました。
主な曲輪
本丸周辺    御茶屋曲輪、竹束曲輪
二の丸周辺  天神曲輪、竹沢曲輪
三の丸周辺  樹木屋敷(曲輪)、三の丸武具蔵(曲輪)、城米蔵(曲輪) 

調査レポート

ただいま調査中

第6調査室  南の備え 新曲輪(しんぐるわ)

sinnguruwabubun主郭部に向かって大きく迫り出した南側の台地全域が新曲輪部分です。その全域と周囲の沼の跡
が岩槻城址公園となっています。岩槻城跡というと、岩槻城址公園のことと思われる方が多いよ
うです。岩槻城址公園は確かに岩槻城跡ですが、城の中心部ではありませんでした。主郭部の南
を守る要、それが新曲輪でした。
新曲輪部分は、西の新曲輪と南東の鍛冶曲輪という、二つの曲輪から構成され、さらに鍛冶曲輪
には、小さな曲輪(「東曲輪・ひがしくるわ」と仮称します)が附属していました。
このようにいうと、新曲輪って、二つあるの?と思われるかもしれません。個々の曲輪として、
鍛冶曲輪と併存する新曲輪がありますが、鍛冶曲輪を合わせたこの一帯を総称して「新曲輪」と
呼ぶ場合もあります。両者を区別して、狭い意味での城郭を構成する三つの部分の一つを指す場
合には「新曲輪部分」といって、個々の曲輪とは区別しています。なお、このほぼ全域が岩槻城
址公園となっており、さらにその範囲は埼玉県史跡に指定されています。


singuruwa新曲輪部分の「はたらき」として、大きく3つが指摘されています。
  1) 主郭部に向かって迫り出した台地を敵が占拠して攻撃の足掛かりとすることを防ぐために、
     あらかじめ城郭として確保
  2) 主郭部の搦手(からめて)に通じる荒川沿いの自然堤防(しぜんていぼう)ルートへの外
   部からの進出を遮断し、そこを城内側として確保
  3) 大構と一連の外郭を構成

新曲輪部分は、豊臣政権との軍事的対決に備えて、1580年代に行われた岩槻城大改修によって築造されたと考えられます。
1590年(天正18年)5月、豊臣政権の南関東攻略部隊の攻撃を受けた岩槻城では、激戦が繰り広げられました。その時、新曲輪
も主要な攻め口となり、南関東攻略部隊に編制されていた徳川家康家臣たちが猛攻を加えました。対する守備兵の激しい抗戦に
あい、寄せ手の徳川部隊には多くの戦死者が出たと伝えられています。
新曲輪部分の大部分は、埼玉県史跡に指定されています。新曲輪・鍛冶曲輪ともに外縁の土塁や堀は良好な状態で保存されてい
ます。また両曲輪の出入り口には「馬出(うまだし)」が残されていて、戦国時代末期の貴重な遺構です。発掘調査では、大構
と同様の障子堀(しょうじぼり)が発見されていて、大構と一連の築造であったことが確実になりました。
以上のほかに、特に新曲輪の内部には、蔀(しとみ)土塁が複数配置されていたことが、「岩槻城幷侍屋敷城下町迄総絵図」
(第2調査室 絵図)の記載からわかります。残念ながら新曲輪内部の蔀土塁はすべて失われてしまいましたが、新曲輪・鍛冶
曲輪それぞれの馬出内には、蔀土塁が残っています。

調査レポート

1.瓢箪から駒?障子堀「発見」 ☞ 瓢箪から駒? 障子堀「発見」(PDF形式 1,324キロバイト) (2021.04.30)
2.鍛冶曲輪の構え ☞ 鍛冶曲輪の構え(PDF形式 6,208キロバイト) (2021.04.30)

第7調査室  北の備え 新正寺曲輪(しんしょうじぐるわ)

sinshoujiguruwa新曲輪の反対側、主郭部の北の対岸が新正寺曲輪です。ここは(元)荒川と主郭部北側の沼に
はさまれた、広大な曲輪です。

曲輪の中心に久伊豆明神(現在の久伊豆神社)と別当の光明院の広大な境内がありました。久
伊豆明神には、戦国時代の天文19年(1550)に岩槻城主太田資正が社殿を造進した棟札が伝え
られていました。新正寺曲輪の久伊豆明神は戦国時代の岩槻城と不可分の関係にありました。
曲輪名も久伊豆明神の別当・光明院(こうみょういん)の寺号が新正寺とされていますから、
それを曲輪名としたと考えられます。
江戸時代の中期頃まで、曲輪内には岩槻藩士の屋敷が設けられていましたが、江戸時代後期に
城主の家臣団の規模が縮小すると、藩士の屋敷は取り払われ、畑として再開発されました。


sinshoujiguruwanobougyo新正寺曲輪の「はたらき」は、基本的には新曲輪と同じく、
  1) 主郭部に向かって迫り出した台地を敵が占拠して攻撃の足掛かりとすることを防ぐため
    に、あらかじめ城郭として確保
  2) 主郭部の搦手(からめて)に通じる荒川沿いの自然堤防(しぜんていぼう)ルートへの
    外部からの進出を遮断し、そこを城内側として確保
  3) 大構と一連の外郭を構成
を挙げることができますが、これらに加えて、
  4) (元)荒川の渡河点から大構田中口までの防御
も挙げることができます。左の図では、弓矢や鉄砲による新正寺曲輪からの防御を赤矢印で示
してあります。


新正寺曲輪では、主郭部や新曲輪のような本格的な発掘調査が行われたことがなく、また江戸時代の絵図でも曲輪内の土塁や堀の
描画があまりありません。このため、曲輪としての調査・研究はあまり進んでいません。これからの研究の進展がまたれるところ
です。 

調査レポート

1.新正寺曲輪と久伊豆大明神 ☞ 新正寺曲輪と久伊豆大明神(PDF形式 1,977キロバイト) (2021.04.30)


第8調査室  大構(おおがまえ)と城下町

大構(おおがまえ)とは、広い意味での岩槻城の外側を取り巻いていた防御施設のことです。一般的には、惣構(そうがまえ。総
構)と呼ばれる城郭施設です。 大構は、外側に堀、内側に土塁が築かれ、城郭と城下町を一体化して、敵の攻撃から守る役割を
担っていました。
大構が構築されたのは、戦国時代末期の1580年代後半のことと考えられます。当時、岩槻城は関東の統一を進める小田原(神奈川
県小田原市)の北条氏の有力支城でした。北条氏は、天下統一を進める豊臣政権との対決に備えて、配下の城郭の大改修を進めま
した。その一環として、岩槻城の大構が構築されたようです。
それまでの岩槻城のおひざ元には、すでにいくつかの町が形成されていました。城下町の形成が進んでいたわけですが、それらは
岩槻城のそばを通る複数の街道に沿って衛星状に散在していたようです。大構は、それらの町を内側に取り込み、空間的にも視覚
的にも岩槻城と一体化した城下町を誕生させました。
大構の中に集約化された戦国城下町を直接の母体としつつ、織田・豊臣政権を通じて形成された城下町構成原理が導入されて、江
戸時代の城下町が誕生しました。そこでは、大手門外の城郭(狭義)近くに岩槻城主家臣の屋敷地ゾーンが配置され(武家地)、
その外側に庶民の居住・商業地区である「町家(まちや。町屋)が配置されました。武家地と町家との間の出入り口には門もしく
は木戸と番所が設けられていました。武家地内の街路は「小路(こうじ)」と呼ばれ、広小路(ひろこうじ)・諏訪小路(すわこ
うじ)・裏小路(うらこうじ)その他の街路がありました。
町家は、九つの町にわかれ、さらにその内部が上・下などに区分される町と、脇町を附随させる町などもありました。町屋の中心
は、城郭に向かって伸びる街道を二分する市宿町と久保宿町で、どちらも戦国時代の町場に由来する町です。市宿町では毎月 6回
(一と六が付く日)市が開かれました。また、城下町は幕府直轄の街道である日光御成道の宿場・岩槻宿でもあり、市宿町と久保
宿町は岩槻宿の伝馬(てんま)を担当していました。

基本情報

往時の威容を伝える岩槻城大構跡岩槻城大構(文化財紹介)
武家地・渋江口で城下町に時を知らせた「時の鐘」 時の鐘とその周辺(深掘り文化財)
武家地・裏小路に開かれた藩学遷喬館 ☞ 岩槻藩遷喬館(文化財紹介)
岩槻城大構の確認調査 ☞ 市指定史跡岩槻城大構確認調査報告 その1 表紙~本文
             市指定史跡岩槻城大構確認調査報告 その2 写真図版~奥付


調査レポート

慶長六年霜月一日「高力清長市掟」を読む ☞ 慶長六年霜月一日「高力清長市掟」を読む(PDF形式 2,189キロバイト)
大構跡の発掘調査 ☞ (近日公開 しばらくおまちください)


第9調査室  城の外 さいたま市域と岩槻城

edojidaikoukikuniezukaraまず、江戸時代の様子を見てみましょう。大構の内側では、特に江戸時代前
期に武家地や町家の拡大が進みますが、その後大構の外側へと都市域が拡大
していきました。南側に六番町までの番町組屋敷が江戸時代前期阿部家城主
期に新設されました。惣町を構成する九町の一つ、林道町も早い時期に成立
し、街道筋には脇町として林道杉並町や出口町なども形成されました。
その外縁には、城付きで城下町分の耕地である西原地・東原地が広がってい
ました。西原地・東原地は戦国時代には岩付原地(いわつきはらち)と呼ば
れていましたが、江戸時代初期に大構の東西で分割され、こうよばれるよう
になりました。さらにその外縁には、江戸時代中期頃までに町分の新田開発
が進み、惣町とあわせて「九町五新田」と呼ばれました。ここまでが岩槻城
の直轄範囲で、その外側に岩槻城領や幕府領(天領)、私領(他の大名・旗
本領)の村や町が拡がっていました。



戦国時代には、さいたま市域のほぼ全域が岩槻領に編成され、各地に岩槻城主に仕えた武士の居館と伝えられるところや、岩槻城
落城後に遁れて来た、などの伝承が残されています。確実な史料では、たとえば岩槻城の重臣河目氏は吉野郷(北区吉野町周辺)
の領主でした。また同じく重臣の宮城氏は岩槻城主太田全鑑から大間木(緑区大間木周辺)に所領を与えられています。発掘調査
によって、岩槻城との関わりが確実と思われる遺構などが発見される場合もあります。岩槻城の北西3.5キロメートルのところに
ある「新堀(しんぼり)」と呼ばれる土塁と堀(岩槻区平林寺。平林寺遺跡内)は、岩槻城と足立郡北部を結ぶ街道に設けられた
防衛拠点の可能性があります。また、北区土呂町にある「土呂陣屋跡」は、江戸時代の旗本・初鹿野(はじかの)氏の陣屋(じん
や)跡と考えられていましたが、発掘調査が進んだ結果、戦国時代の城館跡でもあることがわかってきました。
時代とともに岩槻城との直接的な関係は移ろいましたが、さいたま市内各地には、岩槻城に関わりのある文化財や歴史資料が今な
お数多く残されています。

調査レポート

1.武州浦和の郷あて(天正18年)卯月廿九日浅野長吉判物を読む ☞ 武州浦和の郷あて(天正18年)卯月廿九日「浅野長吉判物」を読む(PDF形式 1,745キロバイト)
2.太田窪と岩槻城 ☞ 太田窪と岩槻城 - 前編 -(PDF形式 1,802キロバイト)
                    太田窪と岩槻城 - 中編の上(PDF形式 3,310キロバイト)
          太田窪と岩槻城 - 中編の下(PDF形式 3,516キロバイト)
          太田窪と岩槻城 - 後編の上(PDF形式 2,266キロバイト)
3.土呂陣屋 ☞ (近日公開 しばらくおまちください)

資料室

■資料
岩槻城跡旧状図(統合)(PDF形式 2,017キロバイト)

■調査報告
随時追加します

■図録・リーフレット
岩槻の中近世遺跡-岩槻城とその時代ー(PDF形式 6,450キロバイト)


■その他
めざせ!さいたま考古マスター!」から
第5回 天下人・秀吉がやってきた(番外編)(PDF形式 980キロバイト)

関連情報

sinpukujikaidukachousasaizensen 真福寺貝塚調査最前線 国指定史跡真福寺貝塚。縄文時代後晩期の
跡として知られる遺跡の実像解明のために
積みかさねられている発掘調査の最新情報
を紹介します。
★令和3年度の調査情報も発信中
mezasesaitamakoukomasuta めざせ!さいたま考古マスター! 出土品などの写真をみて、さいたま考古は
かせの難問・奇問に挑戦しよう!
tokinokanetosonoshuuhenn 時の鐘とその周辺 岩槻城と城下町に時刻を知らせた「時の鐘」。
江戸時代から変わらぬ場所で、今なお一日
3回、時を告げています。
bunkazaiwotutaeru 文化財をつたえる
文化財を「つたえる」には、二つの意味が
あります。一つは継承、もう一つは多くの
方に文化財の価値と魅力を享受していただ
くこと。文化財を「つたえる」ための取組
を紹介します。
edojidainoezukaramitaminumatusenbori 江戸時代の絵図から
見る見沼通船堀
見沼通船堀を描いた「武州足立郡八町堤通
船方拝借地疎絵図」から、江戸時代の見沼
通船堀について考えます。
kamakuradonotosaitama 鎌倉殿とさいたま
(ただいま準備中)
鎌倉幕府を開いた源頼朝とその後継者たち
は、「鎌倉殿(かまくらどの)」と尊称さ
れました。さいたまの地は鎌倉殿とどんな
関りがあったのでしょうか。
minumatusenboriwosirou 見沼通船堀を知ろう 見沼通船堀に関する情報をお届けします。
chikikeikakuaikon-umihanai yamamonai 「さいたま市文化財保存活用
地域計画」を作成しています
海はない、山もない。でも、さいたまには
豊かな歴史的環境と数多くの文化遺産があ
ります。その魅力を高め、それを教育・学
習はもとより、地域のにぎわいなどにも活
かしながら、現在も未来も同じようにその
価値を享受できるようにするには・・・。
saitamasinoisekichizu さいたま市の遺跡地図 さいたま市内の遺跡(埋蔵文化財)の基本
情報をご案内します。
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