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更新日付:2024年2月23日 / ページ番号:C113142

さいたま市立博物館展示web解説(江戸時代その2)

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さいたま市立博物館展示web解説(江戸時代その2)ー井澤弥惣兵衛為永のはなしー

井澤弥惣兵衛
この写真は、見沼自然公園(緑区南部領辻)にある井澤弥惣兵衛為永の銅像です。
井澤弥惣兵衛為永(1654/63~1738)は紀伊国溝ノ口村(現在の和歌山県海南市野上新)の生まれで、紀州藩に仕え、領内の用水関係事業などに携わりました。
江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗に江戸へ呼ばれ、全国の新田開発や用水関係の事業などを行いました。その中には、見沼代用水の整備、見沼新田開発、高沼新田開発も含まれます。
その後、勘定吟味役や美濃郡代なども務め、元文3年(1738年)に亡くなりました。

開発方式「紀州流」

「紀州流」とは井澤弥惣兵衛為永が採用した開発方式です。それまでの「関東流」が川を堰き止めて溜井をつくったり、遊水池を設けて洪水に逆らわない方式でしたが、蛇行する川の流れを直線的にし、河川を利用した用水路を開発し、用水と排水を分離させて流路を安定させるのが「紀州流」の特徴です。見沼及び鴻沼の開発も「紀州流」が採用されました。
 

見沼代用水の整備と新田開発

井澤弥惣兵衛為永は享保12年(1727年)に、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗の命を受け、見沼代用水の整備を開始しました。
星川の流れを一部利用して見沼代用水路としたり、川を越えなければいけない箇所は伏越(ふせこし)や掛渡井(かけとい)を設けたりするなど様々な工夫を施しました。
伏越模式図
柴山の伏越の模式図(さいたま市立博物館第43回特別展「見沼」図録より)
見沼代用水路が元荒川と交差する地点に設けられました。元荒川の川底よりも下に「伏越樋」を通し、見沼代用水を通しました。

掛渡井模式図
瓦葺の掛渡井の模式図(さいたま市立博物館第43回特別展「見沼」図録より)
見沼代用水路が綾瀬川と交差する地点に設けられました。綾瀬川の上に木造の建造物「掛渡井」を作り、見沼代用水を通しました。

『見沼代用水沿革史』によると、見沼代用水路は享保12年(1727年)9月から翌年の享保13年(1728年)2月までの6か月間で完成しています。労役90万人、賃金15,000両、伏越などの構造物の費用5,000両を投じて行われた一大事業でした。その結果、見沼新田開発も行われ、見沼溜井に代わる用水として、広範囲にわたって用水利用が可能となりました。

享保13年(1728年)には見沼新田の開発が行われました。1,228町5反歩(約12平方キロメートル)の面積の新田が開発され、新田開発に参加した村や江戸の町人などに分配されることになりました。
見沼代用水路についての詳しい解説は、こちらをご覧ください。

鴻沼の干拓と新田開発

井澤弥惣兵衛為永は享保14年(1729年)に下落合村(現在のさいたま市中央区下落合)から鹿手袋(しってぶくろ)村(現在のさいたま市南区鹿手袋)にかけて南北に広がる鴻沼の開発を開始しました。
見沼代用水西縁から水源を得るために北袋村(現在のさいたま市大宮区北袋町)から上落合村(現在のさいたま市中央区上落合)を通る導水路をつくり、これまで鴻沼に注いでいた切敷川(霧敷川)を西縁用水路に繋ぎました。
排水は中央に集め、下流の村々が用水として利用した後、鴨川に合流し、荒川に放流するようにしました。このように用排水を分離することで下流域の用水源を失うことなく開発できました。
享保16年(1731年)に完成した高沼新田は幕府直轄領となり、近隣の九か村に分割されました。
高沼用水路についての詳しい解説は、こちらをご覧ください。
※「鴻沼」は古くから「高沼」と表記されることが多いため、沼そのものを示す場合のみ「鴻沼」と表記しています。

新田開発で周辺の村々に多大な恩恵をもたらしたほか、用水路を活用した舟運で地域の商品流通の促進に寄与しました。

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